霧雨の中、散策したてみた。
また、近くには、石垣の美しい棚田があった。
山の上の方から作られたという。 少し不思議。
※ サッカーは、11時頃からでしょうか。 いよいよですね。
梅雨の時期だからか、天気が良くない。 先の予報もよくない。
去年は、これが梅雨なのか、と思うくらいだったのだが。
北海道に早く行って、9月初めの、八尾の風の盆に間に合うように、戻ってくるか。
今後の天気次第では、北上のピッチが速まるかもしれない。
紀伊半島の山は、高くはないが、混んでいる。
隙間なくあるから、道が狭い。 海から少し離れたら、すぐ山の中。
道の駅 茶倉駅。 場所はここ。

ここは、飯南茶の産地。(広く、伊勢茶でもある)
また、CHAKURA(チャクラ)は、サンスクリット語で輪の意味だそう。
ふれあいの輪が広まるようにとの、願いを込めて、駅名を茶倉駅とした。
丘に登ったり、谷に下りたり、散策路があった。
見える川は、櫛田川。 向こうが上流。 見晴らし台から。

※ こんなニュースが入ってます。 プールで事故。 意識不明の重体。 学校の発表はこう。
「プールで児童がおぼれた」と119番をした。
女児は25メートルを泳ぎ切った後、プール内を歩いている間に急に倒れた。
矛盾していますね。 新しい事実が、きっと出てくる。
茶畑が多い。
伊勢地方は、加工用原料茶(アイスクリームなどに使用)の生産が、全国第1位のシェアだそう。 82%。

見晴らし台から降りたら、吊橋があった。 茶倉橋。

堰堤(えんてい)。
ここのは、いいですよ。 魚道がある。
真ん中の、滑り台のようなのも、そうかな。
左のが、はっきり、魚道ですね。 魚がここを登る。 階段状になっていて、少し登ったら、魚は休める。

魚道の設置基準というのは、ちょっと、ひどいんですよ。
(魚道)第35条の2 ※ 河川の管理に関わる政令。
「床止めを設ける場合において、魚類の遡上等を妨げないようにするため必要があるときは、
国土交通省令で定めるところにより、魚道を設けるものとする」
これは、平成9年に出来た。
それ以降の物に適用で、それ以前のには、適用されない。
古いものには、魚道を作らなくてもいい、ということ。
魚にとっての幸せは、どこまでも川を上ったり、海が見たかったら、海まで行けること。
つまり、旅ができることかな。 放浪でなくてもいいから。
吊橋は、大きくても小さくても、楽しい。

リバーサイド茶倉。 自然と親しむための施設。

道の駅は、山の上。

櫛田川。 向こうに流れている。
何が珍しいかって、川の底が、ずっと一つの岩。 山口県の、長門峡の川もそうだった。 たまにある。

茶畑。

道の駅。

深野のだんだん田に来た。

棚田の見事な方へ、駐車場から歩いた。


雨は、小雨か、小ぬか雨の感じ。 花は、いきいき。

ここの棚田は、白猪山(しらいさん)の山の中腹にある。 ※ 白猪山・・819㍍。 場所はここ。

石垣が目立つ。

遠くは、石垣しか見えない。

お城の石垣のようですよ。 素人が作ったようには、見えない。

ここの山は、きっと、石だらけなんでしょうね。 山の下から、こんなにたくさん運べない。
畑から出た石を、石垣に使うと、一石二鳥。

説明に、こうあった。
石垣の段数・・・約120段
石垣の総延長・・約120㎞
石の数・・・・・約300万個

室町時代、この辺りは、北畠氏が治めていた。
ここ白猪山の頂上近くの西に、のろし場があったという。
そこには、見張りのために、侍がいた。
侍の食糧確保に、棚田が作られた。
山の上の人間に必要な米だったので、棚田は、山の上の方から順に作られた。
上の方まで、ずっとあった。

家も、石垣の上。

松坂牛を飼って、糞を肥料に、わらを餌に。 循環している。
石垣がいいですね。

道の端に、花が。 広い道ではない。 でも、車も人も、決して踏まない。

いいですね。

石垣に木が。 石垣が、先でしょうね。

※ 11時38分、日本に1点が入った。 貴重な先制点。 前半あと少し。
棚田全体の雰囲気が、よかったですね。 ちゃんと整備されている。
それは、計画的に、されていた。 こんな標示。

駐車場に戻ってきた。

伊勢は、この次。 道の駅、関宿に向かった。
途中に、松浦武四郎記念館があった。 寄らなかったが。
この人が、北海道の名前を考えた。

※ 前半、1-0で終了。
深野のだんだん田は、観光地ではなかったが、高いレベルの棚田に感じた。
棚田を後世に残す意義、そこを明確にするのが大事なんですね。
私の頭の中では、整理が出来ていない。
ここは、棚田だけでなく、牛も飼ってるからいいのか。
棚田だけでは苦しいから、もう一つ何かが必要なのかな。
少し見えてきた。
今日は、道の駅も、棚田も、よかったですね。
※ 日本勝ちましたね。 1-0。 12時52分。 おめでとう。
【道の駅】 関宿 ここです。
【明日の予定】 今後の大きなコースを、検討中です。
【今日の歌】 リバーサイドホテル(YouTube) リバーサイド茶倉が出てきたので。
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芭蕉は、ここ伊賀上野で生まれました。
この町で、俳諧の道をスタートしていました。
また、伊賀流の忍者博物館があり、楽しめました。
伊賀上野は、昨日いた関宿から、奈良に向かう途中にある。
大きな山ではないが、山を越してきた。 さらに山を越えると奈良県。
だから、ここは盆地。 場所はここ。
伊賀忍者については、博物館の形で、資料の保存と、実演をしていた。
初めに実演を見た。
これは、忍者の戦い。
戦いの武器は、刀一つでなく、手裏剣や鎖鎌など、いっぱいある。
片方が、服部半蔵役だった。
忍者だから、このように身軽で、時々跳ぶ。
この人が、真剣を持ち出してきた。
ゴザを巻いたようなのは、一晩濡らしたそうだ。
軽く振りおろしたように見えた。 それでも、一瞬で切れた。
この後、さらに振り上げて切るが、撮影は失敗。
※ 肝心な時に、連写の操作が分からなかった。(1秒に、6コマ撮れるのに)
下の写真は、良く撮れましたよ。 顔も真剣。
この人は、鎌を投げた。 鎌は、ゆっくり回転しながら飛んだ。 左の方に、見える。
難しい技だと思う。
このように刺さった。
これは、鎖鎌。 ヌンチャクのように振り回した。 失敗したら、自分の首を切りそうだ。
この人は、本番の前、外で練習していた。
微妙な感覚のズレがあっても、きっと出来ない。
時々、このようにふざける。
どうして、この伊賀の地が、忍者の里のようになったのか。
それが分からないと駄目ですね。 こうでした。
まず、ここが都から離れ、盆地と言う閉鎖的な部分が良かったようです。
それと、この地に、都からの亡命者が多かったとあった。
その中には、服部氏がいた。(服部半蔵の先祖か) 奇術や軽業が得意だった。
他に、大和朝廷で呪術をつかさどっていた、物部氏も来たそうだ。
このように条件が整って、伊賀流の忍術が、甲賀と共に、他より秀でていったようだ。
資料館を見た。 これは、爆竹。 竹を使った、本当の爆竹だ。
種子島の鉄砲が来る前から、火薬は作っていたとあった。
これで水の上を歩く。 大丈夫かな。
忍術は、戦うだけでなく、生きるための知恵を、様々身に付けていた。
こんなの知らなかった。 何時付く水滴だろう。
※調べたら、朝露でした。
※他に、蜘蛛が巣をせっせと作っていたら、雨は降らないそうです。 雨で巣が痛むから。
他に、知恵をいくつか。
① 縫い針で、方位地震が出来るのを知っていた。 何かでこすって。
② 鳥の羽を地面に刺す。 数時間後水が上がってくれば、近くに水がある。
③ 臭いで見つかったら困るので、いつも清潔にして、ニンニクのような物は食べなかった。
④ 土の中に、破傷風菌があることは知っていた。 武器の先に、土などを塗りつけることがあった。
※ 手裏剣の先には、トリカブトを塗っていた。
この地図は、本能寺の変の直後、家康が岡崎に逃げ帰ったルート。
家康は、三方ヶ原で負けた時も、大変だった。 関連ブログ。
この伊賀越えも、大きな危機だった。
この時、伊賀と甲賀の忍者の活躍があり、家康は無事に岡崎に帰る。
家康は、この恩を忘れることはなく、後に200名を召しかかえることになる。 頭は、服部半蔵。
家康が天下を取る要因の中に、恩を忘れないという部分があったのかな。
そのことが、人心掌握に大きくプラスした。 そんな気がする。
下の鎧は、伊賀越えの時の忍者の家に、代々伝わるものだそう。
忍者屋敷の説明はあったが、人がいっぱいで撮影は無理だった。
ここの建物は、他から移築していた。
灯りを消したら、見えなくなる。
雪虫の様な虫が、町中を飛んでいた。
誰かが冬の蛍と言ったが、ネットを調べても出てこない。
芭蕉翁記念館に行った。 本物はあったが、写真は撮れないし、見るだけはつまらない。
あっちこっちの説明を読んだ。 下のは、絵葉書を撮影。
旅人と 我名よばれむ 初しぐれ とある。
芭蕉は、この家の場所で、1644年に生まれる。 手前の小さな建物は、昔のまま。
芭蕉が江戸に出るのは、29歳の時。 俳諧師を目指す。
愛染院という松尾家の菩提寺に、故郷塚と言われるものがあった。
芭蕉の、遺髪が埋められている。
蓑虫庵に向かう途中に、こんな喫茶店が。 忍者だ。
この建物が出来た時、芭蕉は下の歌を贈った。
みの虫の 音をききにこよ 草の庵
それで、ここは蓑虫庵。 ※芭蕉庵ともなっていたが、芭蕉がいたわけではなかった。
後ろの方から撮影。
芭蕉の資料はたくさんいただいた。
全部読んだが、この町での芭蕉の動きが分からない。
ここは、生誕の地と言うだけで、この地での芭蕉の活躍は無いように感じた。
ただ、ネットで調べていたら面白いことが分かった。 次のこと。
芭蕉を俳諧の道に誘ったのは、藤堂良忠という人。 俳号は蝉吟(せんぎん)。
その人に継子がいたが、若くして亡くなった。(継子・・後を継ぐ養子)
芭蕉は、その親に対しても、亡くなった子に対しても、特別な思いを持っていた。
山寺で、芭蕉は、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」をつくる。
ここでの蝉は、偶然ではなく、蝉吟の蝉だった。
蝉の命のはかなさと、亡くなった子の命の短さとを重ねた。
上のことについては、一部しか知らなかった。
息子のことや、蝉吟という人が上野の人だったことは、初めて知った。
もしかしたら、芭蕉は山寺に行く前から、上の俳句は作っていたかも知れない。
芭蕉については、奥の細道が面白いでしょうか。
関連ブログを載せますね。 山寺 尾花沢 山刀伐峠 中尊寺 象潟 最上川
【道の駅】 宇陀路室生 ここです。
【明日の予定】 室生寺かな。 他にも何かありそう。
【今日の歌】
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で14位です。
瀬川英子が歌っているが、YouTubeにはない。 視聴も見つからない。

この建物の中に、下のが入っている。 関の山車(やま)が。


ここでも、関の山、の説明があった。

大きくなった画像は、さらに大きくなります。

こういう窓が目立った。 虫籠窓(むしこまど)と言うそうだ。 漆喰で塗籠(ぬりごめ)たから、この名前。 塗籠るは、漆喰で周りを塗り固めたというような意味。

正月でないのに、ある。

ここに、馬をつなぐ。

昨日の写真にある、地蔵堂。

境内に、一休さんの像が。 ここを旅で通った時、地蔵の開眼供養を頼まれ、こんな歌を作った。
釈迦は過ぎ弥勒は未だ世に出ぬ間の
かかる浮世に目明かしめ地蔵
意味は、
釈尊が人々を救済した時代はすでに過ぎた、また弥勒菩薩が出現するのはもっと先の世である。
こんな末法の今世はただこの地蔵菩薩だけが救いである。どうか開眼させ給え。 (東海道の昔話というサイトに)
これに関わっての言い伝えがあった。

地蔵堂から、さらに西に行った。
こんなのを見ると、この家に住む人の、センスの良さを感じる。

坂を下りたら、西追分。

真っすぐ行ったら、京都。 左に行ったら、奈良。

ひだり と やまと が読める。

来た道を戻った。

南天の実。 難を転じる、の意味があるので、植えるそう。(kameさんが教えてくれた)

ここの店に寄った。

これを一つずつ食べた。

このお菓子は、関宿の名物だそう。 kameさんが一箱プレゼントしてくれた。

江戸時代は、この箱に入れて、京都にいる天皇に届けた。

和三盆という砂糖を使っている、とある。 和三盆(Wikipedia)

上の箱は、右から見たら、こう。 左から見たら、こう。


別の店。 こっちから見たら、看板はこう。

反対側から見たら、こう。

お菓子やと、上の店は同じ並び。 つまり、こうでした。(初めて知った)
江戸に向かって看板を見ると、漢字で書いてる。
京都に向かって見ると、ひらがながある。
店から、ひょいと出ても、看板を見れば、方向が分かる。 便利だ。
※ コンビニに寄って、出て来て車で走ったら、元来たほうに戻ったことがある。 方向を忘れる。
東追分に近づいた。

皇帝ダリアだ。 いっぱい咲いてた。

これは、千両かな。

江戸の方から、関宿に来ると、ここが東追分。 鳥居をくぐって左に行くと伊勢。

戻る途中に、床屋さんにこんなのが。 小さい。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓があるというので、kameさんが連れて行ってくれた。 10分ほど車で走った。

前方後円墳の古墳だった。 場所はここ。
神社もあった。 古くない。

こんな説明が。

ここが墓だと言う。 古墳の入り口か。

日本武尊は、ここまで来て、疲れて倒れた。
それは、足が三重に折れる位と、昔の書物に表現されていた。
それで、この地方を、三重と呼ぶようになった。 ここは、三重県だ。(kameさんの説明)
今日は、kameさんのお陰で、関宿について、大分分かりました。
昔は、規模の大きな宿場町でした。
看板の表と裏が違うことが、面白かったでしょうか。 どっちが表かは分からないが。 江戸を中心に考えたら、漢字の方かな。
【道の駅】 同じです。
※朝、道の駅に近くのホテルで食事をした。バイキング。お風呂にも入って600円。建ったばかりで、半額だった。
【明日の予定】 上野に向かいます。 忍者に会えるか。 芭蕉の生まれた所。
【雑記】 先日の塩郷の吊り橋の写真は、使われませんでした。 産経新聞探訪に。 ざんねん。 完璧ではなかったかな。
【今日の歌】 私の城下町(YouTube) 格子戸があったので。 もう1曲。 ゆうぐれの里(Youtube)
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で12位です。

古代の3関というのが、逢坂の関、不破の関、鈴鹿の関だそう。
その鈴鹿の関に出来たのが、関宿。
鈴鹿の関の、関を取って、関宿。
※、この辺りは、鈴鹿と言うのかな。 鈴鹿サーキットもある。
関宿の地図。 場所は、この辺り。


私は、地図の真ん中辺りに、下の方から行った。
こっちは、地図の左の方。 京都に行く。

こっちは、地図の右の方。 江戸に行く。

資料館があった。

中央の赤い所が関宿。
その右端から、伊勢に道が分岐している。 また、左端から、奈良への道がある。
また、江戸から来ると、山の手前にある。
こいうことで、関宿は発展したようだ。

上の黄色の○の所が、西追分。 奈良への分岐がある。
下の、黄緑の○が、東追分。 伊勢への分岐がある。
左の黄緑に、道の駅がある。

ここは、昭和59年に、全国20番目で、伝建地区(国の重要伝統的建造物群保存地区)になった。
これは、四番町山車(だし)見送り膜。 説明は下に。
関の山の語源が、ここにあるとは知らなかった。


明治時代の自転車もあった。

さらに、西に歩いた。
ここは、みんな生活しているから、車がよく通る。
観光客の車も。 急に動くと、ひかれそうになる。 子供は要注意だ。 大きな問題に感じた。

百六里庭という建物と庭があった。 江戸から106里の場所だそう。
その建物の、2階から撮影。 西の方を。

関宿は、東海道53次の江戸から数えて、47番目の宿場町。
玉屋という旅籠が、資料館として残っていた。
どの建物も、奥に長い。

裏にあった庭。 このそばに蔵があって、安藤広重の絵があった。 撮影はできない。

昔の人は、こんなのを持って旅をしていたようだ。 玉屋の名前が見える。

ここは、高札場を復元したもの。

こんな物が、いくつもあった。

正徳元年は、1711年。 この26年後の1737年に、島原の乱は起きる。 関連ブログ。

鍛冶屋さんがあったので、入ってみた。
ここの旦那さんは亡くなっていて、奥さんが昔のままの状態で、見せていた。
鉄をたたく機械は、昭和の終わりに買ったそう。
昔は、奥さんも、真っ赤に焼いた鉄をたたいた。
熱いから汗をかく。 汗をかいた腕とかに、飛び散った鉄の火花がくっつく。
旦那さんの腕は、小さなやけどの跡がいっぱいついた。
NHKが取材に来た時、この火傷の跡は、勲章だと答えたという。

風を送るフイゴ。
コークスを使う前は、松の炭を使ったという。 油があるから、高温になる。
1000度まで、温度は上がった。

いくつか並べて売っていた。
奥さんが使っている包丁は、50年経つという。
この包丁で、髭も剃れるそうだ。

亡くなった旦那さんは、昔町会議員をやっていた。
伝建群の認定を受けるために、一生懸命だったという。
地蔵院というお寺。 寺の説明とか無かったので、詳しいことは分からなかった。

ここで、小万という名前を見つけるのだが、何者なのかは分からない。
※ 調べたら、東海道一人旅というサイトに、こんな説明があった。
同僚に殺された久留米藩士牧藤左衛門の妻は、仇を追って関まで来たが、旅篭山田屋で女子を産んで死亡。旅篭の主人は、この子を小万と名付けて養育した。小万は親の悲劇を知らされ、亀山で剣術修行をしやがて仇を発見し討ち果たした。その後、恩有る山田屋で奉公し36才で亡くなった。
下の写真の、あいづやが、上の文の山田屋と分かった。


こんなのが。 見たことあるような気もするが。


この先、もう少し行くが、途中で戻る。

こんなのが。

ここは、安く素泊まりできる。

桶屋さん。 風は無いけど、儲かってるかいと聞いてみたかった。
休んでいたので、写真のお願いをしたら、仕事を始めてくれた。

ここの店は、昔、芸妓置き場だった。 向こう隣も。


向こう隣の、かいうん楼の2階の窓。 この格子が珍しいそう。

反対側に、ここまで歩いてお終い。

今日は、5時にkameさんが道の駅に来ることになっていた。 少し離れた、亀山から。
手作りの料理とお酒を持ってやってきた。
それをご馳走になって、私の車の中で宴会。
kameさんとは、高松の近くの道の駅で会った。 その後、大沼で再会した。
今日、関宿を歩いたが、分からないことが多かったので、明日一緒に歩いてもらうことにした。
私はすっかり酔ってしまったので、9時頃お開きになった。
久しぶりに、いっぱい寝た。
kameさんも、自分の車で寝た。
【道の駅】 関宿 上の地図に。
【明日の予定】 関宿を再度歩きます。
