明智光秀が、この言葉をどこで発していたかが、分かりました。
寅さんが、亀山城を案内してくれました。 ここです。
光秀の城でした。
※ 寅さんは、昨日のブログに書いた人。
10年も前から、キャンピングカーで旅をしている。
だから、この亀山のことも詳しい。
どこに、どんな店があるかだって、みんな知っていた。
お昼を、一緒に駅の近くの王将という餃子の店で食べた。
この店は、西日本では良く見る。 食べたのは初めて。 おいしい。
亀山城跡には、宗教の建物が建っていた。この建物の後ろに、石垣があり、昔は城があった。
右に見える大きな銀杏の木は、明智光秀が植えた木だという。

石垣の方に行ったのだが、上には行けなかった。 立ち入り禁止だった。
城跡などは、市や町の公園になっていることが多いが、ここは違った。
写っているのは、寅さん。

ここは、京都から15㌔。 丹後に抜ける街道にある。
※ 亀山について調べていなかったので、何も知らなかった。

これが、亀山城。
この写真は、関ヶ原の戦いの後の1610年に建て替えられたもの。
大阪城包囲網の拠点だったそうだ。

本能寺の変について、寅さんは詳しかった。いろいろ教えてくれた。
本能寺の変は、1582年6月2日に起きた。
明智光秀に、本能寺で信長が殺された。
前日の6月1日には、光秀は亀山城にいた。(地図の左端の○)
西に行っていた秀吉の援軍の目的で、5月26日に来ていた。
6月1日の夕方、光秀は13000人の兵を率いて京に向かった。
真夜中に、老ノ坂を越える。(○の所)
翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言して襲撃を明らかにした。(○の所)
嵐山に行ったときに見た川の、下流だ。
よく聞くこの言葉は、この場所で発していた。

光秀軍は、早朝には、本能寺を完全に包囲していた。
この後のことは、Wikipediaにはこのようにある。
物音に目覚めた信長は家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。
すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告され、光秀が謀反に及んだと知る。
信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。
しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。
女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長の小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる。
信長の遺骸は発見されなかった。
上に書いてあるのは、一般的なものだ。
でも、真実は分からず、首謀者についてもはっきりしていない。 いろんな説がある。
寅さんは面白いことを言った。 ※寅さんは、「信長の棺」を読んでいた。
首謀者は、秀吉だって。
信長は安土城からここに来て、援軍の集結を待ち、秀吉のいる西に向かう予定だった。
信長周辺の軍は手薄だった。(人数ははっきり分からない)
寅さんの考えは、信長はそれでも、大丈夫だと考えていた。
それは、秘密の抜け道があったからだ。
でも、光秀に襲われ、信長は死んだ。
信長が抜け道から逃げようとしたら、途中で埋まっていた。
埋めたのは、秀吉だ。
信長が死んで一番得をしたのは、秀吉だった。
秀吉は、光秀の動きをすべて知っていた。
寅さんの考えをまとめると、以上のようになった。
家康は、この時、伊賀を越えて岡崎に逃げ帰る。 そのコースは、このブログの一部に。
生涯で、一番のピンチだったと言われている。
もしかしたら、家康は、光秀だけでなく、秀吉も信用していなかったかもしれない。
秀吉にとって、天下取りの邪魔になるのは、信長と家康だから。
上のことが真実かどうかは分からないが、秀吉から人心は離れていくが、家康には集まる。
今日の寅さんの話を聞いて、秀吉は、家康や信玄や謙信とは違うように、あらためて感じた。
※ 本能寺の変については、いろいろ調べてみました。
こうだという定説は、確立されていませんでした。
寅さんのいう可能性は十分にあるように思います。
今日は晴れていた。
城の紅葉は終わりかけていたが、少し残っていた。
室生寺で聞いた女子高生の言葉が忘れられなくて、光に透けたモミジの写真を狙った。
後ろから光が当たると、色は命を吹き込まれたように、ただの鮮やかさではなくなる。
昨日の紅葉も見事だったが、これには負ける。
そう思うかな。
そう言えば、思い出したことがある。 昨日、詩仙堂でこんなことがあった。
二人連れの、若い女の人がいた。
一人が写真を撮りながら、もう一人の人に、あんた写真撮らないの、と言った。
その人は、カメラを持っていなかった。
そうして、いいことを言った。
ここで、問題です。 何と言ったでしょうか。 答えは、写真の下に。
※ ヒント 1文です。 その中に、「心」が入っています。

答え。 こう言いました。 「心のフィルムに焼きつける」って。
負けましたね。
今日は、そうしようって、じっと見つめてみました。
【道の駅】 同じです。
【明日の予定】 もう一日います。 車の中が終わりません。 収納を全部見直しています。
【その他】 寅さんが、私のブログを、たくさんの友達に紹介してくれました。
それで、今日は読んでいただいた人が多いです。
また、ブログランキングも、上の方で戦っています。
寅さん、そして、寅さんのお友達に感謝します。
【今日の歌】 北の岬(YouTube) 二つ合わせて、600を超えました。 うれしいです。
CAN YOU CELEBRATE(YouTube) 昨日、京都駅で聞きました。
【ブログランキング】 国内旅行6位、旅行全体で16位です。 ありがとうございます。

京都市街とは空気が違う、静かな佇まいでした。
曇ってはいましたが、そのなかで鮮やかにモミジは、輝いていました。
昨日の大原は、世を離れた人が、そっと住んだ場所だった。
今日行く所は、修学院利休などがあり、昔貴族の別荘があったところ。
京都駅から、地下鉄で御所のそばの今出川駅まで行った。
近くに息子は住んでいるので、そこから一緒に、叡山電鉄の始発駅、出町柳まで歩いた。
地図では、こう。

御所の北面沿いを歩いている。 御所の中は広い。 夕方歩く。

鴨川はここで分かれる。
左は加茂川。(字が変わる) 鞍馬寺の方から来てる。
右側は、高野川。 大原や、比叡山の方から。
この橋を渡ったら、出町柳の駅。

修学院の駅で降り、曼珠院に向かった。 紅葉の状態がいい。

一つの枝だけが、真っ赤。 こんなのがあるとは・・・。

曼珠院の前。 綺麗な苔だった。

曼珠院。
ここは、竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)。
国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集などがある。

真っ赤に紅葉している木が、何本かあった。 これが、本物の紅葉かな。

砂に模様をつけた、枯山水の庭だった。

この後行く、有名な詩仙堂より、こっちの庭の方が良かった。

伊勢物語。
後小松天皇は、一休さんのお父さん。
※ 一休さんは、この天皇のご落胤と言われている。 (落胤・・・天皇の隠し子のようなものかな)

古今和歌集。 (この辺りは写真OK。 ほとんどは、撮影禁止)

中の様子。 桂離宮に似てると言われている。

谷崎潤一郎が贈ったという鐘。

上の方の木と、同じかな。

小さな庭だけど、これもいい。

曼珠院の紅葉は、十分に良かった。
詩仙堂に向かう途中。 なかなか。

詩仙堂の建物。 庭から撮影。
ここは、江戸時代初期の文人、石川丈山の山荘跡だそう。 寺でもある。

人が多くいた。 庭のまるい刈込の木が、目立ち過ぎていた。

紅葉は、全体で、それなりの状態だった。 わるくはない。

白いススキのようなのが、いいでしょうか。

いいですね。

この木に、多くの人が注目。 色が混ざっている。

同じ木で、この枝は、赤が強い。 初めて見た。

詩仙堂は、庭全体の紅葉が良かった。 そんな感じだった。
戻るときに、この木が。
クロガネモチと名前がああった。 区民の誇りの木と、表示されていた。

ここは、一乗寺の駅。 こんな電車が走っている。

薄暗い中、御所の中を通って、今出川の駅に向かっている。

今日見た紅葉は、良かった。
京都の紅葉を追うのは、これで終わりにします。
今日は、動きません。
これからのコースと、冬に向けての準備をします。
※ このブログの文は、30日の朝書いていた。
その時、ある人が訪ねてきた。
余市の道の駅で、コーヒーをご馳走になった人。
京都に、もう何日もいるという。
午後から、亀山を案内してくれる。
出かけない予定だったが、行ってきます。
しばらく話していたので、ブログは遅くなりました。
【道の駅】 同じです。 ガレリア亀岡。 ここは、温泉もある。
【明日の予定】 動かない。
【ブログランキング】 国内旅行6位です。

今回は寂光院に。
京都駅から、バスに乗った。 道が混んでいるので、1時間近くかかった。
バス停からは、15分ほど歩く。
寂光院は、下の写真の少し山の中にある。
美しく紅葉している木に、時々あった。

このような道を歩いた。

大原の里、という雰囲気だ。

紅葉を目的に、みんな来ている。
ここを上ったら、寂光院の本堂。

これが本堂。 平成12年の火災で全焼した。 これは、復元したもの。
この寺が開かれたのは古く、聖徳太子が父の用明天皇を弔うために建てた。

本堂の右側の庭。 紅葉は、まあまあ。でも、庭全体は綺麗だ。

左の木は、千年姫小松と呼ばれていたが、火災で弱り枯れてしまった。

この松は、平家物語に登場する松だそう。

本尊も火災で損傷し、別に保管していた。 これは、新しい。

この人が、健礼門院徳子。
平清盛の娘で、高倉天皇の皇后。 そして、安徳天皇を産む。
壇ノ浦で平家は、義経に負ける。
この人は、助けられるが、我が子安徳天皇は亡くなる。
平家一門と安徳天皇を弔い、この地で過ごす。

この人は、健礼門院につかえた人。 崇徳天皇の寵愛を受けたが、出家してここに来た。
大原女のモデルの人。 あのような服装をしていた。

1枚撮らせてもらった。 いいポスターはなかった。

この寂光院は、秀頼や家康に大事にされたため、今に残った。
小さな寺だったが、大原の里に似合うものだった。
戻るときに撮影。 こんなお店が。

途中から見た、大原の家並み。

帰り、バス停で、東山の寺全体がライトアップしていると聞いた。
そっちに向かった。
着いた時は暗くなっていた。
知恩院も高台寺も、入場するため、人が並んでいた。
円山公園で、大道芸をしている人がいた。
面白かったので、30分ほど見た。

ここは、三年坂。 みんな清水寺に向かっている。
この坂を上ったら、清水寺まで、長い行列が出来ていた。

清水寺に着いた。 三重塔。

これは、庭園の池。 水面に写っている。

人の数は半端でなく、確認していないが、数万人は今晩集まったと思う。(追記 確認しました。 数万人です)
境内全体がライトアップされていた。 幻想的な雰囲気だ。 (紅葉の美しさと言うより、光の芸術だ)

清水の舞台。

市街地の左の方。 京都タワーが見える。

右の方。

和服姿の人もいた。 京都に似合うと言っていいでしょうか。

音羽の滝。

帰りに下から撮影。

七時半ころ。 ここは、三年坂の下の二年坂。 まだ、多くの人が向かっていた。

京都駅に行くのだが、バス停は混んでいて乗れない。 50分ほどかけて、歩いた。
京都駅。 8時半ころ。 この後、息子と近くの店で、焼肉を食べた。

10時半ころの電車で、亀岡に帰ったが、居眠りして亀岡駅を通り越してしまった。
ここは、隣の「なみかわ」という駅。 次の電車を30分待った。
車に戻ったら、12時を過ぎていた。

ライトアップした紅葉は、幽玄と言うか、そんな雰囲気だった。
紅葉とは、別のものを見ているように感じた。
室生寺で出会った高校生が言った、光を透かして見た時の紅葉の美しさ、それにはかなわないでしょうか。
それでも、わるくはありませんでしたが。
寝不足が続きます。 ※ 今日歩いた歩数は、28200歩でした。
【道の駅】 同じです。
【明日の予定】 修学院離宮を考えていたのですが、日曜日で休みでした。
近くの、曼珠院に行きます。 京都は、最後になるでしょうか。
昼間の紅葉の、いい写真を目指します。
【ブログランキング】 国内旅行5位です。 ありがとうございます。

嵐山は、紅葉の名所です。
多くの人が来ていましたが、山全体の紅葉の状態は、よくはありませんでした。
ポイント、ポイントで綺麗なところはありましたが。
京都に着いたのは、2時頃。
車を亀岡の道の駅に置いて、電車で出かけた。
道の駅で温泉に入ったので、嵐山に着いたのは、4時半だった。 ここです。
渡月橋から、上流を撮影。 こっちは大堰(おおい)川。 橋の下流は、桂川。
近年、山のモミジが減ったことと、温暖化で、昔ほどの紅葉にならないと言う。

嵐山は、京都の西のあるが、清水寺や三年坂のある東山と並んで、観光地になっている。
観光客は、紅葉を期待してやって来ていた。

薄暗くなっても、人は減らない。

渡月橋を渡ったところ。

人が多いため、橋は一方通行になっていた。

渡月橋から見た月。
この橋の名前の由来は、こうだそう。
昔、亀山上皇という人がいた。
橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と言った。
それで、渡月橋となった。

以前話題になった吉兆。 (ここは、嵐山吉兆)
このように、料亭はライトアップしていた。

暗くなってきても、人は減らない。 何してるんだろうと思った。
ここは、うどん屋さん。

渡月橋の向こう。

6月に来た時のブログに、小倉山などについて書いてあります。 ここに。
電車で、京都駅に出た。 目の前に、京都タワーが。

展望室かな。

京都駅の地下街を歩いた。

8時頃から、京都にいる息子と食事をした。 6月以来。
京都の昼間は温かかった。 オホーツクの9月、根室の夏の感じ。
夜になったら、寒かった。 上着がいる。
冬の恰好をしている人もいた。
京都の紅葉は、山全体は期待できなくても、狭い範囲の名所があるので、そこを見たい。
明日行ってみようと思う。
今は、大原を検討中。 寂光院がある。。
ここは、壇ノ浦で助けられた、薄幸の健礼門院が住んだ所。
28日の晩も、ブログは遅くなります。
【道の駅】 ガレリア亀岡 ※ 亀岡駅まで、歩いて20分。
ブログランキングは、5位でした。 ありがとうございます。

夕方、柿を食べながら鐘のなるのを待ちました。
今いるところは、法隆寺から近い、竜田川のほとりです。
ちはやぶる 神世も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
この歌が生まれたところです。
せっかく奈良にいるから、もう一つ見て京都に行くことにした。
昨日は、飛鳥時代だったこともあり、法隆寺にした。
竜田川もある。
法隆寺は、聖徳太子ゆかりの寺。
古いこともあり、近くの寺といっしょに、世界遺産になっている。 ここ。

天下の法隆寺かも知れないが、観光客は少ない。
山の中の室生寺は、人でいっぱいだった。
ここは、建物も仏像も国宝だらけなのに、人気のものがないのか。
室生寺の五重塔ひとつに、負けている。
そんな感じがした。
空から見たら、こう。 夢殿とかは写っていない。 右手前にある。

手前に柿の木があり、赤い実がなっていれば理想だ。
法隆寺の名前を聞いたら、正岡子規の、この俳句を思い出す。
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
明治28年(1895年)年10月26日に、奈良に遊びに来た。 その時、ここに来て作った。
松山の、夏目漱石の所からやってきた。

わが国最古の五重塔。
大きい。 高さ、32.5㍍。 室生寺の五重の塔の、ちょうど2倍。
どこから見たら美しいか、撮影の場所をずいぶん変えた。
これも、もちろん国宝だが、美しさの面では、室生寺に大分負ける。
この塔は、遠くから見た方がいいかも知れない。 (柿でも食べながら)

こんなのが普通でしょうか。

法隆寺の建物は古い。 いつの建物かについては、論争が起きている。
ただ、次のことが、確認されている。
法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は、650年代末から690年代末に伐採されたもの。
※ 年輪年代測定という方法。(これは、テレビでやっていた)
飛鳥時代の建物と、大雑把にいうことは、大丈夫のようだ。
下は金堂。 この寺の本尊がある。

金堂内部。(パンフレット) 中央に、釈迦三尊像。

その真ん中にある、釈迦如来像。 顔が普通の仏像と違う。

観覧する場所の隅に、監視員が座っていた。
その人に、ご苦労さんですと声をかけて、仏像の顔が違いますねと言った。
やってきて、説明してくれた。 詳しかった。 こうだった。
① 作者は、鞍作止利(くらつくりのとり)。 帰化人。
② 顔は面長。
③ 目は、杏子(あんず)の形。
④ 口は、両端が少し上がっている。アルカイックスマイル(古式の微笑)と言うそう。
⑤ 体全体にふくらみが少ない。
⑥ 聖徳太子の病気の回復を願って作った。
他に、寺全体についても説明してくれた。
どんな質問にも、答えてくれた。 木材の年代測定についても。
※ その間、上の金堂の写真に写っている女の人が寄って来て、ずっと聞いていた。
関心があるみたいだった。
いい表情の仏像だなと、思った。
これは、聖霊院(しょうりょういん)。 ここを通って、宝物庫(宝物館)に向かった。

宝物庫である、大宝蔵院。 百済観音や玉虫の厨子がある。

百済観音。 広隆寺の半跏思惟像と同じで、普通の仏像と全く違う。
しばらく、眺めていた。
※ 下の写真は、パンフレットを撮影。 小さな写真。
接写のコツが分かってきた。 パソコンでの修正も。
※ 今日分かった一番のコツは、全自動で撮ることだった。 腹が立つ。
※ あとは、外付けのストロボは、天井に向けること。 これも大事。

これは夢殿。 聖徳太子を供養するために建てた。 中には、仏像がいっぱい。

国宝と聞いて感動はしないが、変わった雰囲気の、二つの仏像が気に入りました。
有名なのは他にもありましたが。
道の駅と法隆寺は、3㌔ほど離れている。
柿は食ったが、鐘の音は聞こえなかった。 車の音で消されたかな。
竜田川に、川と紅葉の写真を撮りに行った。
紅葉は、どこもいい状態ではなかった。 撮影ポイントをずいぶん探した。
下の写真も、十分ではない。 この後、向こうの橋に行った。

これで、精一杯。 実際は、写真よりずっと暗い。 (感度640) 撮影場所は、ここ。

下の歌は、百人一首にもあり、よく知られている。
水が流れるように、一気に読むことが出来る。
ちはやふる 神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは (在原業平)
くくるは、絞り染めのこと。 からくれないは、唐紅(韓紅)で、鮮やかな濃い紅の色
紅葉が、川を、絞り染めのように、紅くした、ということですね。
その美しさは、神の時代から聞いたことがないと。
昔の人は、自然を見つめる目が、繊細だ。
上の写真では、ほんの少し川が紅くなっている。
【路の駅】 大和路へぐり ここです。 竜田川も見えます。
【明日の予定】 京都に行きます。
【雑記】 竜田揚げについて。
ヤフーの百科事典にこうあります。
奈良県の竜田川は百人一首に詠まれているほど古くからもみじの名所であるが、
竜田揚げも、揚げた色が赤褐色をしているので竜田川のもみじに見立てての命名である。
【今日の歌】 ロクサーヌ(YouTube) 映画ムーランルージュの曲です。
キム・ヨナは、2年間この曲を使用します。(ジュニアで1年)
ロクサーヌを一番上手に演技したのが、このフランス大会の時です。(2006年)
演技が音楽にピッタリ合っています。
フライング・シットスピンというのがあるんだが、その後が、特にいい。
あと1週間したら、グランプリファイナルが始まります。
オリンピックに向けて、完璧な自信を手に入れることが出来るか。 どうなるでしょう。
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心は、飛鳥時代に飛びました。
石舞台古墳は、古墳ですが、上の土が無くなって巨石だけが残っていました。
また、石の上が平らなため、伝説が生まれ、そう呼ばれていました。
橘寺は、聖徳太子の生まれた地、ということなので行ってみました。
長谷寺はやめた。 牡丹で知られた寺だが、他の魅力が分からなかった。
北海道を走るのと違って、どこに行くのも近い。
駐車場は有料だった。 街の中でないので少し走ってみたら、パーキングがあった。 もちろん無料。
最近、少し賢くなった。
高い所に上って、全体を見た。 ここです。
元々の姿は、全体に土がかぶさっていた。 今は、半分から上の土が無くなった状態。

ここの魅力は、石が大きいこと。
どうやって、この石を運んだんだろうと思う。

この古墳は、蘇我馬子の墓と言われている。
飛鳥時代の豪族で、朝廷とのつながりが強かった。
飛鳥時代は、推古天皇から始まる時代。 6世紀の終わりから100年ほど続く。
壬申の乱があって、その後、持統天皇がここから藤原京に都を移す。
上の写真の手前から、中に入れる。
ここには棺があったが、盗掘でなくなっている。

学術調査団のような人たちが来ていた。
天井の石が一番大きいが、他も大きい。 天井の二つは、60㌧以上。

どうして、こういうものを作りたくなるのでしょう。

石の上が平らなので、そこで、狐が踊ったとか、旅芸人が踊ったとかの話がある。
そこから、石舞台古墳と呼ばれるようになった。
全体の説明は、こう。

石の運び方の説明。
少し分かりにくい。

こうやって、3㎞程離れた所から運んだとあった。
ころを使って、一人100㎏引っ張れたとしても、60㌧なら600人になる。

イースター島のモアイ像も、こうやって立てた。

土を後で取る方法は、よくある方法ですね。

推古天皇の宮廷(宮室)があったのは、ここから3㌔ほどの豊浦という所。 すぐそばだ。
奈良時代の16年前までの100年間、この辺りが政治の中心だった。
※ 天皇の影響がどのくらいだったかは分からない。
例えば、東北の人たちなんか、存在さえも知らないでいたと思うが。
石舞台から、そこへの途中に、橘寺はあった。 歩いて、15分ほど。
こんな風に見えてきた。

明日香川に沿っての道を歩いていたら、こんなのが。 かわいいい絵だ。 マムシを見たい方は、ここを。

この道を歩いていたら、万葉集の歌碑があった。

珠藻を調べてみたら、玉藻のことで、ふつうの藻のこと。 妹は妻。
この辺りで、どんな生活をしていたのでしょう。
※ 服装も、食べ物も、家も、仕事も、まったく想像つかない。 知識がない。

橘寺。 建物自体は、江戸時代のもの。
ここで、聖徳太子が生まれたとされている。 飛鳥時代が始まる592年の、20年ほど前に。
※ 聖徳太子については、日本書紀等に書かれているのだが、本当にいたかどうかははっきりしない。

言い伝えのものがあるが、文化財とか何かに指定されているわけではない。
あくまでも、伝説だからか。
※ この寺には、室町・鎌倉時代の仏像等が多くあった。 国宝はない。

太子像のある本堂は、こんな感じ。

別の建物の上がり口にあった。
心がそろうって、どういうことだ。 二つあるのか?
※ そういうことを言ったらダメか。

これは、二面石とよばれ、飛鳥時代のものだそう。 この寺の目玉。
人の心の善悪二相を表している。 右の顔が穏やかで、左は怒っていた。

修行の場に使う建物があった。
天井画が素敵とあったので、入った。(撮影はだいじょうぶ)
私は信心深くないので、この人のように、手を合わせることは少ない。
寺の建物の雰囲気が好きなので、行くだけ。
※ ただ、手を合わせるときは、ブログを読んでる人に、いいことがありますようにって必ずお願いしますね。
そして、クリックしてくれる人には、もっといいことがありますようにって。(このように、すぐ、少しまじめでなくなる)

天井画。 新しいものだが、それなりの人が描いていた。

こんな花が。

別の道を通って、戻った。

遠くに、ちいさな塔が見えた。

ここ、飛鳥(明日香)の地は、日本の政治の発祥の地でしょうか。
飛鳥時代のもっと前にあった、卑弥呼の邪馬台国はどこだということだが、8割か9割くらい、畿内と言われている。
その中で可能性の高いのが、ここから10㌔ほど北にある、纏向遺跡(まきむくいせき)だ。
ということは、794年に都が京都に移るまでは、奈良を含めたこの地方が、ずっと政治の中心だったことになる。
はるか昔のことなので、はっきりしない部分が多いが、大体そういうことだ。
そんな所に、今、私は来ています。
【道の駅】 吉野路 大淀iセンター ここ。
【明日の予定】 京都の紅葉が始まったので、そっちに向かうかも知れない。
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で15位です。

女の人が入山できたことによります。 やわらかく、いい名前です。
五重の塔をたくさん見てきましたが、室生寺五重塔の美しさのレベルは別格でした。
もちろん、国宝です。
深い森の中に、輝いていました。
室生寺は、道の駅から10㌔なかった。 ここです。
駐車場からは、5分ほどで着いた。
知らないおばさんたちと、おしゃべりしながら歩いた。
ここが、仁王門。

ここの山は、室生山。 一番上の奥の院まで、石段が続く。

寺の説明では、681年に開かれたとあるが、Wikipediaには奈良時代の最末期 とあった。(790年頃)
※ 寺の説明は、伝承に基づいたもの。 文書で確認できるのが、後者。

紅葉が始まっていた。
女子高生とすれ違った。 一人が、紅葉について、こう言った。
下から見る方が、光が透けてるから、きれいじゃん。 って。
私も、最近そう思う。

ここは、五重塔の人気が高いため、たくさんの人がやって来ていた。
左の建物は弥勒堂。 鎌倉時代のもの。 この中には、国宝の釈迦如来座像があった。

撮影禁止なので、何となく中が分かる程度に。

この建物は金堂。 国宝。 平安初期のもの。
中には、山ほどの仏像があった。 国宝も、重要文化財もいっぱい。

雰囲気が分かるでしょうか。

石段を上ると、本堂に出た。 寺の中心。 鎌倉時代のもので、国宝。
右の方から撮影。 美しかった。

本堂の少し下から撮影。 左上に、五重塔が見える。

これを見たくて来た。 (見るのは3度目かな)

平安初期のもの。 国宝。 高さ約16㍍。 日本で一番小さい。(外にある塔で)
下から見上げた時の美しさを計算して、作られたそう。
※ これを作るとき、きっと模型をつくった。 斜め下から眺めて、何度も作り直したのだろうか。

右の方から撮影。
奈良の薬師寺に、三重塔がある。 凍れる音楽と例えられた塔だ。
その塔に、私は建築美としての美しさを感じた。
しかし、室生寺五重塔は、そうではないように感じる。
この塔の美しさは、絵や彫刻と同じように、芸術作品の美しさに。
※ 難しいことは分からないが、そんな風に感じるかな。

いいですね。 うつくしい。

塔の頂上が、普通と違う。
※ 普通は、こんなの。(水煙と言うのかな)


塔の朱は、緑に映える。

上から見た。
平成10年の台風の時、この方向から、高さ50㍍の杉の大木が倒れた。 屋根を大きく損傷した。

こんな風になった。 塔の中心部分は大丈夫だった。 修復が完了している。

大きな杉だ。

こんな石段を。

奥の院に着いた。

左は、位牌堂。 右は御影堂。(中に弘法大師の像があるそう)

位牌堂の中。 (撮影は大丈夫)

ロープをぶつけたら、音が出る。

こんな道を戻った。

脇道があったので、行ってみた。

賽ノ河原だろうか。 そんなのがあった。 たくさん石が積んであった。
いつだかも書いたが、石を積む訳は、こうだ。 賽ノ河原の思想による。
親より早く死んだ子どもは親不孝の報いで極楽に行くことができない。子供だから地獄にも行けない。賽の河原にとどまって苦を受ける。
子どもたちは親を想い、その供養のため石を積みあげて塔を築く。
でも、鬼がそれを壊す。 賽ノ河原の子は、泣きながらまた石を積む。
それで親は、亡くした子の冥福を祈って石を積む。

賽ノ河原の子供の表情に、見えてくる。

本堂に戻ってきた。 紅葉がきれいだ。

この石段を下りて、右に行ったら、仁王門。

駐車場までは、お土産屋さんが並んでいる。 こんなお店が。

はるか昔に、どうして、このような五重塔が作れたのでしょう。
技術は、中国や朝鮮から伝わって来たとは思うが。
五重塔の中で、室生寺のを越えるのは、あるのだろうか。
見惚れるほどの美しさ、と言ってもいいでしょうか。
【道の駅】 昨日に同じです。
【明日の予定】 長谷寺の方に向かいます。
【今日の歌】 愛の終わりに(YouTube) 愛のままで(YouTube) 同じ作詞者です。
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で13位です。

芭蕉は、ここ伊賀上野で生まれました。
この町で、俳諧の道をスタートしていました。
また、伊賀流の忍者博物館があり、楽しめました。
伊賀上野は、昨日いた関宿から、奈良に向かう途中にある。
大きな山ではないが、山を越してきた。 さらに山を越えると奈良県。
だから、ここは盆地。 場所はここ。
伊賀忍者については、博物館の形で、資料の保存と、実演をしていた。
初めに実演を見た。
これは、忍者の戦い。
戦いの武器は、刀一つでなく、手裏剣や鎖鎌など、いっぱいある。
片方が、服部半蔵役だった。
忍者だから、このように身軽で、時々跳ぶ。
この人が、真剣を持ち出してきた。
ゴザを巻いたようなのは、一晩濡らしたそうだ。
軽く振りおろしたように見えた。 それでも、一瞬で切れた。
この後、さらに振り上げて切るが、撮影は失敗。
※ 肝心な時に、連写の操作が分からなかった。(1秒に、6コマ撮れるのに)
下の写真は、良く撮れましたよ。 顔も真剣。
この人は、鎌を投げた。 鎌は、ゆっくり回転しながら飛んだ。 左の方に、見える。
難しい技だと思う。
このように刺さった。
これは、鎖鎌。 ヌンチャクのように振り回した。 失敗したら、自分の首を切りそうだ。
この人は、本番の前、外で練習していた。
微妙な感覚のズレがあっても、きっと出来ない。
時々、このようにふざける。
どうして、この伊賀の地が、忍者の里のようになったのか。
それが分からないと駄目ですね。 こうでした。
まず、ここが都から離れ、盆地と言う閉鎖的な部分が良かったようです。
それと、この地に、都からの亡命者が多かったとあった。
その中には、服部氏がいた。(服部半蔵の先祖か) 奇術や軽業が得意だった。
他に、大和朝廷で呪術をつかさどっていた、物部氏も来たそうだ。
このように条件が整って、伊賀流の忍術が、甲賀と共に、他より秀でていったようだ。
資料館を見た。 これは、爆竹。 竹を使った、本当の爆竹だ。
種子島の鉄砲が来る前から、火薬は作っていたとあった。
これで水の上を歩く。 大丈夫かな。
忍術は、戦うだけでなく、生きるための知恵を、様々身に付けていた。
こんなの知らなかった。 何時付く水滴だろう。
※調べたら、朝露でした。
※他に、蜘蛛が巣をせっせと作っていたら、雨は降らないそうです。 雨で巣が痛むから。
他に、知恵をいくつか。
① 縫い針で、方位地震が出来るのを知っていた。 何かでこすって。
② 鳥の羽を地面に刺す。 数時間後水が上がってくれば、近くに水がある。
③ 臭いで見つかったら困るので、いつも清潔にして、ニンニクのような物は食べなかった。
④ 土の中に、破傷風菌があることは知っていた。 武器の先に、土などを塗りつけることがあった。
※ 手裏剣の先には、トリカブトを塗っていた。
この地図は、本能寺の変の直後、家康が岡崎に逃げ帰ったルート。
家康は、三方ヶ原で負けた時も、大変だった。 関連ブログ。
この伊賀越えも、大きな危機だった。
この時、伊賀と甲賀の忍者の活躍があり、家康は無事に岡崎に帰る。
家康は、この恩を忘れることはなく、後に200名を召しかかえることになる。 頭は、服部半蔵。
家康が天下を取る要因の中に、恩を忘れないという部分があったのかな。
そのことが、人心掌握に大きくプラスした。 そんな気がする。
下の鎧は、伊賀越えの時の忍者の家に、代々伝わるものだそう。
忍者屋敷の説明はあったが、人がいっぱいで撮影は無理だった。
ここの建物は、他から移築していた。
灯りを消したら、見えなくなる。
雪虫の様な虫が、町中を飛んでいた。
誰かが冬の蛍と言ったが、ネットを調べても出てこない。
芭蕉翁記念館に行った。 本物はあったが、写真は撮れないし、見るだけはつまらない。
あっちこっちの説明を読んだ。 下のは、絵葉書を撮影。
旅人と 我名よばれむ 初しぐれ とある。
芭蕉は、この家の場所で、1644年に生まれる。 手前の小さな建物は、昔のまま。
芭蕉が江戸に出るのは、29歳の時。 俳諧師を目指す。
愛染院という松尾家の菩提寺に、故郷塚と言われるものがあった。
芭蕉の、遺髪が埋められている。
蓑虫庵に向かう途中に、こんな喫茶店が。 忍者だ。
この建物が出来た時、芭蕉は下の歌を贈った。
みの虫の 音をききにこよ 草の庵
それで、ここは蓑虫庵。 ※芭蕉庵ともなっていたが、芭蕉がいたわけではなかった。
後ろの方から撮影。
芭蕉の資料はたくさんいただいた。
全部読んだが、この町での芭蕉の動きが分からない。
ここは、生誕の地と言うだけで、この地での芭蕉の活躍は無いように感じた。
ただ、ネットで調べていたら面白いことが分かった。 次のこと。
芭蕉を俳諧の道に誘ったのは、藤堂良忠という人。 俳号は蝉吟(せんぎん)。
その人に継子がいたが、若くして亡くなった。(継子・・後を継ぐ養子)
芭蕉は、その親に対しても、亡くなった子に対しても、特別な思いを持っていた。
山寺で、芭蕉は、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」をつくる。
ここでの蝉は、偶然ではなく、蝉吟の蝉だった。
蝉の命のはかなさと、亡くなった子の命の短さとを重ねた。
上のことについては、一部しか知らなかった。
息子のことや、蝉吟という人が上野の人だったことは、初めて知った。
もしかしたら、芭蕉は山寺に行く前から、上の俳句は作っていたかも知れない。
芭蕉については、奥の細道が面白いでしょうか。
関連ブログを載せますね。 山寺 尾花沢 山刀伐峠 中尊寺 象潟 最上川
【道の駅】 宇陀路室生 ここです。
【明日の予定】 室生寺かな。 他にも何かありそう。
【今日の歌】
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で14位です。
瀬川英子が歌っているが、YouTubeにはない。 視聴も見つからない。

この建物の中に、下のが入っている。 関の山車(やま)が。


ここでも、関の山、の説明があった。

大きくなった画像は、さらに大きくなります。

こういう窓が目立った。 虫籠窓(むしこまど)と言うそうだ。 漆喰で塗籠(ぬりごめ)たから、この名前。 塗籠るは、漆喰で周りを塗り固めたというような意味。

正月でないのに、ある。

ここに、馬をつなぐ。

昨日の写真にある、地蔵堂。

境内に、一休さんの像が。 ここを旅で通った時、地蔵の開眼供養を頼まれ、こんな歌を作った。
釈迦は過ぎ弥勒は未だ世に出ぬ間の
かかる浮世に目明かしめ地蔵
意味は、
釈尊が人々を救済した時代はすでに過ぎた、また弥勒菩薩が出現するのはもっと先の世である。
こんな末法の今世はただこの地蔵菩薩だけが救いである。どうか開眼させ給え。 (東海道の昔話というサイトに)
これに関わっての言い伝えがあった。

地蔵堂から、さらに西に行った。
こんなのを見ると、この家に住む人の、センスの良さを感じる。

坂を下りたら、西追分。

真っすぐ行ったら、京都。 左に行ったら、奈良。

ひだり と やまと が読める。

来た道を戻った。

南天の実。 難を転じる、の意味があるので、植えるそう。(kameさんが教えてくれた)

ここの店に寄った。

これを一つずつ食べた。

このお菓子は、関宿の名物だそう。 kameさんが一箱プレゼントしてくれた。

江戸時代は、この箱に入れて、京都にいる天皇に届けた。

和三盆という砂糖を使っている、とある。 和三盆(Wikipedia)

上の箱は、右から見たら、こう。 左から見たら、こう。


別の店。 こっちから見たら、看板はこう。

反対側から見たら、こう。

お菓子やと、上の店は同じ並び。 つまり、こうでした。(初めて知った)
江戸に向かって看板を見ると、漢字で書いてる。
京都に向かって見ると、ひらがながある。
店から、ひょいと出ても、看板を見れば、方向が分かる。 便利だ。
※ コンビニに寄って、出て来て車で走ったら、元来たほうに戻ったことがある。 方向を忘れる。
東追分に近づいた。

皇帝ダリアだ。 いっぱい咲いてた。

これは、千両かな。

江戸の方から、関宿に来ると、ここが東追分。 鳥居をくぐって左に行くと伊勢。

戻る途中に、床屋さんにこんなのが。 小さい。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓があるというので、kameさんが連れて行ってくれた。 10分ほど車で走った。

前方後円墳の古墳だった。 場所はここ。
神社もあった。 古くない。

こんな説明が。

ここが墓だと言う。 古墳の入り口か。

日本武尊は、ここまで来て、疲れて倒れた。
それは、足が三重に折れる位と、昔の書物に表現されていた。
それで、この地方を、三重と呼ぶようになった。 ここは、三重県だ。(kameさんの説明)
今日は、kameさんのお陰で、関宿について、大分分かりました。
昔は、規模の大きな宿場町でした。
看板の表と裏が違うことが、面白かったでしょうか。 どっちが表かは分からないが。 江戸を中心に考えたら、漢字の方かな。
【道の駅】 同じです。
※朝、道の駅に近くのホテルで食事をした。バイキング。お風呂にも入って600円。建ったばかりで、半額だった。
【明日の予定】 上野に向かいます。 忍者に会えるか。 芭蕉の生まれた所。
【雑記】 先日の塩郷の吊り橋の写真は、使われませんでした。 産経新聞探訪に。 ざんねん。 完璧ではなかったかな。
【今日の歌】 私の城下町(YouTube) 格子戸があったので。 もう1曲。 ゆうぐれの里(Youtube)
【ブログランキング】 国内旅行7位、旅行全体で12位です。

古代の3関というのが、逢坂の関、不破の関、鈴鹿の関だそう。
その鈴鹿の関に出来たのが、関宿。
鈴鹿の関の、関を取って、関宿。
※、この辺りは、鈴鹿と言うのかな。 鈴鹿サーキットもある。
関宿の地図。 場所は、この辺り。


私は、地図の真ん中辺りに、下の方から行った。
こっちは、地図の左の方。 京都に行く。

こっちは、地図の右の方。 江戸に行く。

資料館があった。

中央の赤い所が関宿。
その右端から、伊勢に道が分岐している。 また、左端から、奈良への道がある。
また、江戸から来ると、山の手前にある。
こいうことで、関宿は発展したようだ。

上の黄色の○の所が、西追分。 奈良への分岐がある。
下の、黄緑の○が、東追分。 伊勢への分岐がある。
左の黄緑に、道の駅がある。

ここは、昭和59年に、全国20番目で、伝建地区(国の重要伝統的建造物群保存地区)になった。
これは、四番町山車(だし)見送り膜。 説明は下に。
関の山の語源が、ここにあるとは知らなかった。


明治時代の自転車もあった。

さらに、西に歩いた。
ここは、みんな生活しているから、車がよく通る。
観光客の車も。 急に動くと、ひかれそうになる。 子供は要注意だ。 大きな問題に感じた。

百六里庭という建物と庭があった。 江戸から106里の場所だそう。
その建物の、2階から撮影。 西の方を。

関宿は、東海道53次の江戸から数えて、47番目の宿場町。
玉屋という旅籠が、資料館として残っていた。
どの建物も、奥に長い。

裏にあった庭。 このそばに蔵があって、安藤広重の絵があった。 撮影はできない。

昔の人は、こんなのを持って旅をしていたようだ。 玉屋の名前が見える。

ここは、高札場を復元したもの。

こんな物が、いくつもあった。

正徳元年は、1711年。 この26年後の1737年に、島原の乱は起きる。 関連ブログ。

鍛冶屋さんがあったので、入ってみた。
ここの旦那さんは亡くなっていて、奥さんが昔のままの状態で、見せていた。
鉄をたたく機械は、昭和の終わりに買ったそう。
昔は、奥さんも、真っ赤に焼いた鉄をたたいた。
熱いから汗をかく。 汗をかいた腕とかに、飛び散った鉄の火花がくっつく。
旦那さんの腕は、小さなやけどの跡がいっぱいついた。
NHKが取材に来た時、この火傷の跡は、勲章だと答えたという。

風を送るフイゴ。
コークスを使う前は、松の炭を使ったという。 油があるから、高温になる。
1000度まで、温度は上がった。

いくつか並べて売っていた。
奥さんが使っている包丁は、50年経つという。
この包丁で、髭も剃れるそうだ。

亡くなった旦那さんは、昔町会議員をやっていた。
伝建群の認定を受けるために、一生懸命だったという。
地蔵院というお寺。 寺の説明とか無かったので、詳しいことは分からなかった。

ここで、小万という名前を見つけるのだが、何者なのかは分からない。
※ 調べたら、東海道一人旅というサイトに、こんな説明があった。
同僚に殺された久留米藩士牧藤左衛門の妻は、仇を追って関まで来たが、旅篭山田屋で女子を産んで死亡。旅篭の主人は、この子を小万と名付けて養育した。小万は親の悲劇を知らされ、亀山で剣術修行をしやがて仇を発見し討ち果たした。その後、恩有る山田屋で奉公し36才で亡くなった。
下の写真の、あいづやが、上の文の山田屋と分かった。


こんなのが。 見たことあるような気もするが。


この先、もう少し行くが、途中で戻る。

こんなのが。

ここは、安く素泊まりできる。

桶屋さん。 風は無いけど、儲かってるかいと聞いてみたかった。
休んでいたので、写真のお願いをしたら、仕事を始めてくれた。

ここの店は、昔、芸妓置き場だった。 向こう隣も。


向こう隣の、かいうん楼の2階の窓。 この格子が珍しいそう。

反対側に、ここまで歩いてお終い。

今日は、5時にkameさんが道の駅に来ることになっていた。 少し離れた、亀山から。
手作りの料理とお酒を持ってやってきた。
それをご馳走になって、私の車の中で宴会。
kameさんとは、高松の近くの道の駅で会った。 その後、大沼で再会した。
今日、関宿を歩いたが、分からないことが多かったので、明日一緒に歩いてもらうことにした。
私はすっかり酔ってしまったので、9時頃お開きになった。
久しぶりに、いっぱい寝た。
kameさんも、自分の車で寝た。
【道の駅】 関宿 上の地図に。
【明日の予定】 関宿を再度歩きます。

大きな観光地でした。
酒とどうして関係があるのかが、分かりました。
また、奈良時代の初めに、養老年間(717~724)があるが、これとも関係していました。
初めて知りました。
水は、美味しかったですよ。
養老乃滝という居酒屋があるが、どうしてその名前にしたかは知らなかった。
朝いた道の駅は、愛知県。
少し走ってここに来たら、岐阜県。
今は、近くの道の駅、月見の里 南濃 にいるが、数㌔走ったら三重県だ。
いそがしい場所にいる。 何がいそがしいかは、分からないが。
養老の滝への道は、川沿いにあった。
どこも、紅葉が始まっている。

道は、川の両側にあり、私は、上の方を行った。

橋が、所々にあるので、行ったり来たりできる。
天気がいいので、観楓(かんぷう)というのか、花見のように人が集まっていた。

石碑に、紅い葉っぱが付いていた。 デザインかと思ったら、本物だった。
こう書いてある。
去りかたき 滝の養老 夕もみじ
※大野万木という人の作品。 この人は、大野伴睦で、この地方出身の政治家。
この紅葉は、この歌を知っているかのように、張り付いていた。

※少しだけ、大野伴睦について。
この人は、鳩山首相の祖父の鳩山一郎の側近。 こんな名言(?)を残している。 聞いたことあると思う。
猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ。
サザンカが目に付いた。

紅葉の中に、この赤はないので、目立つ。

もう少しで滝。 右側の道は、少し上の方にある。

正面に見えた。 ※ 倒れた木を片づければいいのに、と思った。
高さ30㍍。 ふつうの高さですね。

シャッタースピードを落として、遊んでみた。

別の場所。

滝の水は、このように、バラバラになって落ちている。
でも、目で見た時は、流れるように見える。

ここが、メインの滝見の場所。

この滝は、伝説があるから有名なのか。
その伝説は、下の様な内容で、元正天皇が関わっていた。
※ 奈良時代は、元明・元正・聖武と天皇は続くが、元明・元正は女帝で母と娘。

年号を変えたから、たいした滝だ。
※ 続日本紀とあるが、平安初期のもの。Wikipediaによると、内容の信頼性は高いそう。
※ ただ、こういうのを作る目的は、天皇家の価値を高めるためにありますね。
滝の水は、下まで一気に落ちている。

お酒が好きそうな顔かな。 好きだけでなく、強いか。

最初に滝を見た場所。

帰りは、別の道を通った。(右に見えた道)
お土産屋さんが並んでいた。
水を飲めるところが、あちこちにあった。
伝説を信じて、私も飲んだ。

紅葉を、もっと綺麗に撮れたらいい。 むずかしい。

資料館があったので入った。
ここの水を飲んだらお酒だったという伝説。 元正天皇は、これを聞いてやってきた。
こんな伝説。












こういう伝説を考えたのは、お酒の好きな人ですね。
こんな所があればいいとは思うが、
私は、お酒をいくら飲んでも壊れない体がほしいかな。
また、いくら食べても太らない体もいい。(最近は、だいじょうぶ)
修学旅行生はいなかった。 時期が遅いからか。 こういうとこには来ないかな。

お土産屋さんは、雑然と並んでいた。 歩く楽しみは少ない。
※ 三年坂や、大内宿は完璧だった。

月見の森から、携帯で撮影。 (水晶の湯という温泉の前から。ここまでシャトルバスで来た)
中央遠くに、名古屋駅がある。 薄く、高い建物が見える辺り。

前に流れる川は、揖斐川。 長良川、木曽川も見えた。

今日は、いろんな事を知ることができました。 それが面白かったでしょうか。
紅葉の季節なので、自然の中を歩くのは、気持ちがいい。
京都の紅葉の時期も、間もなくかな。
今日、養老の水を飲みながら書きました。
飲み過ぎて、少し酔って寝てしまい、半分は朝書きました。
【道の駅】 月見の里 南濃 ここ。
【明日の予定】 三重県の関宿に向かいます。 ここ。
【今日の歌】 砂の祈り(YouTube) サザンカがあったので。 少し前も載せたかな。
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道の駅が近くにないので、名古屋市の西の、立田ふれあいの里まで走りました。
高速を使わなかったから、時間がかかりました。
車の雨漏りの場所は分かり、修理しました。
途中で、松平東照宮に寄りました。
松平家(家康の先祖)発祥の地です。
また、床屋にも行きました。
走っていたら、松平郷の標示が見えた。 通り過ぎたけど、戻った。
これが、地図。 場所はここ。

大きくしても、字は読みにくいか。

石屋さんの人がいたので、話した。 作業場を見せてくれた。

これで石を切る。

これは、研磨機。 荒いのから、細かいのへと、順に使う。

穴をあける機械。 大きい穴もあく。

今は何でも、機械だそう。
字を彫る機械は高いので、他に出す。
手で彫った時代は、石屋はみんな字が上手だった。
カエルとかどう掘るかを聞いた。
大きな声では言えないが、中国から輸入しているそう。
松平郷の見所も教えてくれた。
この辺り一帯が、別世界のように感じた。
ここに、松平東照宮があった。 3つで終わりだと思っていた。 日光東照宮 久能山東照宮 鳳来山東照宮

ここは、松平氏の館跡。 そこに、この建物を建てた。

説明はここに。

家康の先祖ということで、江戸時代から大事にされた。

お濠。 紅葉が始まっている。 写真を撮りに来ている人が、何人もいた。

この奥に、家康の産湯の井戸がある。 伝説ではあるが。

井戸の水を、ここから岡崎城まで運んだ。

説明はここに。

この像は、初代の松平親氏。 現代風の像だ。

桃源郷の感じがする。

高月院。 松平家の菩提寺。

建物以外の環境もいい。 石屋さんが、町で管理していると部分もあると言った。

お地蔵さんが、いっぱい。

仏足石だという。 お釈迦様の足。

横から見たらこう。

向こうの棚田は、花を植えている。 今は、咲いていない。

アヤメがあった。

メジロが柿を突っついている。 ちゃんと見るのは初めて。 売ってるのといっしょだ。

時間がなく1時間半ほどしかいなかったが、綺麗なところだった。
こういう、隠れたいい所が時々ある。
この地方の人たちは、みんな知ってるかもしれないが。
今日は何も見られないと思っていたので、よかったです。
名古屋市街の手前に、グランパスエイトの本拠地のサッカー場があった。

コメントにある駅のそばの踏切。

車の修理が終わって、一安心です。
今晩は、少し前より、ずいぶん寒いです。
【道の駅】 立田ふれあいの里 ここです。 佐屋駅が近くに。
【明日の予定】 この近くで、ないか見つけたい。 いつものように、まだ調べていない。
【今日の歌】 タッチ(Youtube) ユンナです。 久しぶりです。 静かな曲が続いたので、今日は元気に。
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また、南吉が遊んだであろう生家とその周りは、昔の俤(おもかげ)を残していました。
ごんぎつねを通して表現しようとした「心」は、この土地の人たちの心の中に生きていました。
そのことを、今日歩いて感じました。
新美南吉記念館から見た、権現山。
ごんぎつねの物語は、山とここの間で展開される。
六地蔵と墓地は、私の立っている、右の方。 ここには、中山様のお城があった。

この地図を、時計の反対まわりに行く。 今の墓地や、養家は、地図からはみ出ている。


南吉が通った岩滑(やなべ)小学校に寄った。 教頭(?)が対応してくれた。
ここの木は、南吉が小学生の時植えたそう。 80年近く経った。

こんなのが木に。 子供の字はいいですね。
ほんとうの手を出したのですが、売ってくれたのかな。
「通い合う心」 そんなのを感じるお話です。

誰もいないグランドの、ピッチャーマウンド辺りに、ボールが1個、ころがっていた。
少し前まで、ここで子供たちが遊んでいた空気が残っていた。

グランドの反対側にも石碑があった。

南吉を大事にしていることが、分かる。 母校でもあり、勤めたことも。

南吉の生家に向かった。
郵便局の前に、こんなのが。 他でも見た。

昔は、ここに墓地があった。 六地蔵も。

このような、昔のままの細い道が、多く残っていた。
駅に来る時、南吉は、この道を通った。

標識があった。

ここが、南吉の生家。 昔のまま復元した。

昨日のブログに書いた、狐の話に、下駄屋が出てきます。
※ 下駄は、夜取り替えたらダメだと、書いてあったような気がする。(自信はないが)

ここにいて、4歳の時、お母さんは亡くなる。(昔は、若くして亡くなる人が多い)

お父さんが、畳屋の仕事。

この写真が、やさしそうで、南吉らしさがある。

右の写真は、18歳の時。 岩滑小の代用教員。 ごんぎつねを書いたのは、この年。

何を考えるのでも、浅くない。

南吉は、次の年には、東京の学校に行く。 また戻って来るが。
家の近くに、常夜灯があった。 お話にも登場するそうだ。
左下に、秋葉(あきは)が読める。 これは、秋葉山のこと。

秋葉講とは、宗教的な互助組織だそう。 詳しくは、ここに。 秋葉山のブログはここに。

上に書いてある穴は、これ。

八幡神社。 いろんな話に出てくる。 ここも近い。 家から100mほど。
南吉が、最初に書いた権狐には、この話は茂助爺から聞いた話しとして出てくる。
※教科書の文にはない。(このことについては、最後に)

ここで、きっと友達と遊んだ。

ででむし広場に行こうとしたが、地図を見ても分かりずらい。
立ち止まっていたら、婦人の方が近づいてきた。
困っているんですかって、聞いてきた。
こういう経験は、2度目。 1度目は、中尊寺で。 相手は、1年生の女の子。
この時、ごんぎつねの心は、ここの人たちに、浸みているように感じたんですよ。
道を教えていただいて、ここに着いた。 ででむし広場。 ここで堤防に出た。

右の川は、兵十がウナギを捕る、矢勝川。 この堤防に、秋には、100万本の彼岸花が咲く。

歩いていたら、お地蔵さんがあった。

かすかな笑顔が、陽をあびて輝いて見えた。

南吉の養家に向かった。(地図の左の端から、さらに歩く)
橋にも、いた。

太い車道から離れると、こういう細い道が多い。

昔のまま残っていた。 改修はしているが。 ここにいた期間は短い。


お母さんの実家だが、さびしくて戻った。(この時、お母さんは亡くなっている)

珍しいものがあった。 常夜灯に灯をともす順番だ。 常夜灯は、毎晩使用していたんだ。

地図では、小学校のずっと後ろにある、今の墓地に行ってみた。
六地蔵が、他の地蔵と一緒にあった。 どれが、六地蔵かは分からない。
古いので、表情も分からない。

これだけ、少し。

昔の場所は、地図にある。 ここ移った。

これが、南吉の墓。 この墓も、犬を散歩している人が、教えてくれた。

本名の、正八がある。

記念館に戻ってきた。

南吉の字だが、原稿用紙に書いたものなのかは、確認できない。

まとめとして、教科書に載り続ける理由と、ごんぎつねの魅力について書きます。
記念館の説明では、昭和31年からとあった。 そして全社に載るようになる。 今も、全社に。
その根本の原因は何かと言うと、子供たちは、ごんぎつねのお話が大好きだったことにある。
そうなると、教師は、授業がとってもやりやすい。
また、教師は、この話の主題(作者が伝えたいこと)が、子供たちの関わりに大きなプラスがあるとも考えた。
こうして、ごんぎつねは、教師の支持を得ることになった。
では、教師の支持が、教科書の内容にどうして影響するかです。
その町や地域で、子供たちが使う教科書はどのようにして決まるかですが、
それは、教科書選定委員会の様な名前の会議がある。(北海道は管内別に)
委員の中には、教師が委嘱されて参加する。
教科別に、検討委員会が開かれる。 20名くらい。 ほとんどが教師。
1日かけて、全社の中身を検討・比較する。 最後に1社を選ぶ。
国語の場合だったら、こういうことが起きる。
ごんぎつねが、参加した教師の支持が高い場合、採用していない教科書は、外される可能性が高い。
多くの面から検討し、1社が決まったら、それは案として上部に上がる。 でも、その案が基本的には通る。
載せないで、外された教科書会社は、外された理由を考える。
どういう形かで、理由はつかみ取ることができる。(選考委員でない教師からでも。 選考委員になったことは、秘密になっている)
※ 選考委員会の中身については、これ以上は書けないかな。
※ 昔、算数で参加したことがある。
算数の場合なら、どのページでも、一目見て、くどいと感じたら、それでダメですね。
また、今の教科書は、遊びっぽいページが多い傾向にある。
でも、それには、振り回されることはない。
※ ある教科書会社の、算数の教科書の印刷前の原本を見せてもらったことがある。
意見を求められたので、上の様なことを言ったのかな。
次に、ごんぎつねの魅力ですが、
人の関わりについて考えされられることが、大きな魅力になっていますね。
ごんは、友達がいない。
兵十がいるので、いたずらしてしまう。
読者は思う。 友達になりたいって、兵十に言えばいいのにって。
でも、これは、無理なんですね。
それは、ごんと兵十は、そういう関係(人間関係)になっていなかったんですね。
これと同じです。
学級に、友達からいじめられている子がいたとする。
教師がそのことに気づき、どうしてもっと早く、先生に言ってくれなかったの、って。
その子は、「言えたら、とっくに言っている」と、心の中で思います。
子供と教師の人間関係が出来ていなかったら、何も言えないんですね。
ごんはきつねで、兵十は人間だから、その関係をつくるのはたいへんだった。
鉄砲で撃たれて初めて、ごんと兵十は、心が通い合い、関係ができた。
命と引き換えにやっとつくれた。
南吉は、心が通い合うこと、確かな人間関係の値打ちの大きさを、描きたかったんですね。
南吉の生きた時代も、社会の中に、それが十分ではないと、南吉は強く感じていた。
それ以上大事なものはないとも、思っていた。
だから、南吉は、すべての作品で、これを追うことになった。
花の木村と盗人たち、という話がある。
盗人たちが、花に木村に、どろぼうに入った。
でも、村の人たちは、あなた方はいい人たちだと迎えた。
盗人は、うれしくなって、改心してしまった。
この話で、人との関わりは、自分の出方次第で決まりますよ、ということが分かる。
南吉は教訓的に表現しないから、人の心に入っていく。
昨日のブログの狐の話もそうですが、小狐は、今お母さんと一緒にいるだけで、それ以上の幸せはないとさえ思う。
これを読んだ子供たちも、同じように感じる。
子供たちが、ごんぎつねを読んだら、今いる自分の友達をもっと大事にしようと思う。
教師は、上に書いた、子供との関係の重要性に気づくかもしれない。
こう考えたら、一つのお話が、世の中を変える力を持っていることにもなる。
記念館の人たちは、誰もが来客に対してやわらかな対応だった。
私が2日目の朝、車で駐車場に入った時、外で掃除をしていた人は、手を振って迎えてくれた。
前の日、話はしていたが。
道で、交通整理の人に会った。 少しだけ話した。
2度目にあった時、お疲れさまと声をかけてくれた。
上に書いたが、道を教えてくれた人もいた。
この町が南吉を大事にすることは、南吉が描き続けた、「通い合う心」を大事にすることになる。
そいうい意味で、記念館の果たす役割は大きい。
この町に来て、その役割が果たされているように感じた。
まとまっていないですが、ごんぎつねの魅力は、こんなとこでしょうか。
※上の文は、あす以降も不十分なところは、直したいと思います。(今日は、とりあえず、これで)
【道の駅】 デンパーク安城
【明日の予定】 車の修理で、豊田市へ。
【ブログランキング】 5位と12位になりました。 ありがとうございます。

ごんぎつねの舞台である、半田市岩滑(やなべ)に来ました。
今日は雨でしたので、新美南吉記念館を見ました。
明日、1日かけて歩きます。
ごんぎつねのお話も、そこに登場するごんも、この町の人たちに、大事にされていました。
食事も、おやつも、温泉も、今日はみんなごんぎつねです。
新美南吉記念館は、童話の森にあった。
ごんぎつねのお話に、昔、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです、という文がある。
童話の森、そして記念館は、そこにあった。
記念館も、ごんぎつねと一緒で、穴の中だった。
中は広く、展示の方法も工夫され、また、よく整備されていた。
多くの記念館を見てきたが、その中で、トップクラスだと思う。
※ 記念館の中には、人が来なく、維持するのがやっとという所も多い。 閉鎖する所だってある。
ここは、新美南吉の代表作、ごんぎつねの展示場所。
ごんぎつねって、どんな話なのかは、おおまかにこんな感じ。
※ これは、入ってすぐの所にあった。 忘れた人、知らない人には、有難い展示だ。
こんなお話。
いたずらばかりしてた、とありますね。 でも、意地悪でしてたのとは、ちょっと違うのかな。
少し、後悔しますね。
くれたのは神様かもしれない、とも言うので、ごんは複雑な気持ち。
兵十は怒っていた。 なにも知らなかったから。
命と引き換えに、やっと友達になれたのか。
ごんぎつねは、子供が読んで面白い。 奥が深いから、大人が読んでも面白い。
全文は、ここにあります。 ごんぎつね(記念館のHP)
この人が、新美南吉。 この写真を撮った年に、ごんぎつねを書いている。
昭和7年の1月号に、ごんぎつね(ごん狐)は載った。
このように。
そして、教科書に載るのは、昭和31年から。
すべての教科書に載るようになる。 現在も。 こいうのは、他にない。
昭和6年4月から8月まで、小学校の代用教員をする。
※ 岡崎師範学校を受験するが、身体検査で不合格になる。
この頃はもう多くの作品を作っている。 子供たちにも聞かせた。
こんなのがあった。 輝いている雀を見て、こう感じたんですね。
悲しいような光景と、まとめた。
※ かわらけとは、素焼きの皿。 瓦で作った笥(け)の意味。 笥は、箪笥(たんす)の笥だが、入れ物の意味で、食器に使うことが多いそう。
弟を描いた。
これも赤い鳥に。 まだ、本名で投稿の時。
※ 新美南吉は、渡辺正八だったが、母の実家である新美家の養子になった時期があるため、新美正八となった。
手袋を買いに、の原稿。 20歳の時。
デンデンムシ ノ カナシミ いい内容ですね。
赤ペンの最後から2行目、君自身の独創性で光っている箇所がない、と書いてありますよ。
物語ごとに、このような展示があった。 これは、おじいさんのランプ。
下の写真は、狐というお話。 亡くなる少し前に書いた。
昔読んだ。 詳しくは憶えていないが、
母と子の狐がいて、母狐は、猟師に追われたらどうするかを子狐に話す。 一緒に寝るときに話したのかな。 子狐に聞かれて。
山に逃げると言う。 捕まったらどうするのと、子狐は聞く。
もっと山奥に逃げると、母狐は言う。 それでも追ってきたらどうするの、と子狐は聞く。
そうやって話が続いた。 子狐は、いつまでも、それでも追ってきたらどうするのと、心配して聞く。
最後に母狐は、その時は、お母さんだけが(猟師に見つかるるように)逃げて捕まる、と子狐に言う。
そうしたら、あんたは助かると。
それを聞いた子狐は、大声を上げて泣く。
そんな感じの話でしたね。 きびしい内容の話でしたよ。
昨年撮った小狐の写真。 関係ブログ。
この人は初恋の人。 木本咸子(みなこ)さん。
くわしくは、ここに。
中山ちゑさん。 詳しくは下に。
こんな絵本もある。
絵が美しい。 赤い花は、彼岸花。
南吉がよく散歩したという、矢勝川の堤には、9月の下旬になると100万本の彼岸花が咲くと言う。
ある人が一人で植え始め、それを手伝う人が現れ、20年ほどかけて今になった。
こんなのがあった。
お昼は、ごんのお宿で食べた。 記念館の中。 穴の中だから、お宿。
ごんなべうどん。 アゲが入ってた。
夕方、ここに行った。 露天風呂に洞穴の所があった。 だからこの名前。
湯船に入っていたら、ごんが、お地蔵さんの陰からのぞいていた。
こっちにコイと言ったら、コンコンと鳴いて来なかった。
これが売っていたので、一つ買った。
今日は、ごんぎつねを生み出した新美南吉と、その作品を中心に紹介しました。
29歳で亡くなるのが残念です。 あと何年かでも生きていたら、どれだけの作品を残したのか。
ごんぎつねのお話の素晴らしさについては、明日書きますね。
【停泊場所】 ごんぎつねの湯の駐車場。
【明日の予定】 ごんぎつねの舞台を歩きます。
【今日の歌】 ごンぎつねの宿で、彼岸花の写真を見ました。 白い彼岸花もありました。
それで、山崎ハコの白い花。
エムズの片割れで、先日この曲を取り上げました。
原曲も載せていました。 初めて聞きました。 いいですよ。 作詞は、作家の五木寛之。
「白い花」と「こころの花」(エムズの片割れ)
この人は、心の内から、泣き叫ぶように歌う。 上手だと思います。
昔、根室にいるとき、観客20人位のミニライブで聴きました。 それも、目の前で。
チャンスがあったら、また聴いてみたい。
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昨日、一昨日と、酒を飲むのを忘れた。
2日間とも調べることが多く、それにハマってしまった。 そして朝までかかった。
色んな事を忘れるが、酒を忘れることはなかった。 心配だ。
そんなことがありましたが、夕方少し寝たので、頭はすっきり。
この秋の旅は、いつかも書いたが、半田市に向かっていた。
そこは、ごんぎつねの物語の舞台だ。
新美南吉記念館もある。
ずっと昔から、いつかは行くと決めていた。
さあ行くぞと思ったら、今日は月曜で、記念館は閉館だった。
仕方ないから、道の駅の隣に何かがあるので、行ってみた。
ここが、今いる道の駅、デンパーク安城。
ここは安城市。 愛知県のほぼ中央にある。
かつて「日本デンマーク」と呼ばれ、全国の農業経営のモデルとなった。
その歴史をもとに、自然と親しみ、花のある暮らしを提案する公園を作った。
それが、デンパークだった。 1997年にオープンした。
600円を払って入った。
花の大温室があるので行った。 ここがメインの施設。
入ったらすぐに、大きなオルゴールの演奏が始まった。 写真の向こうに見える。
人が集まってきた。 私もその前で聞いた。
人形でも出てきて踊るのかと思ったが、もちろん演奏だけだった。
目と耳を楽しませてくれたら、もっといいのにと思った。
この時期だと言うのに、クリスマスの雰囲気だった。
デンマークだから、人魚姫があった。
人魚姫は、コペンハーゲンにある。
ずっと昔だが、写真の右の道をバスで通った。
今日は、花を見ただけなので、人魚姫について調べてみた。
話はこうです。(私は、知らなかった) Wikipediaより。
人魚の王の6人の娘たちの内、末の姫は15歳の誕生日に昇っていった海の上で、船の上にいる美しい人間の王子を目にする。嵐に遭い難破した船から王子を救い出した人魚姫は、王子に恋をする。
人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に、「もし王子が他の娘と結婚するような事になれば、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じる事になるとも・・・。王子と一緒に御殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話す事が出来ず、王子は人魚姫が命の恩人である事に気付かない。
そのうちに事実は捻じ曲がり、王子は偶然浜を通りかかった娘が命の恩人と勘違いしてしまう。
やがて王子と娘との結婚が決まる。悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが、髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れる事を教える。愛する王子を殺す事の出来ない人魚姫は死を選び、海に身を投げて泡に姿を変え、空気の精となって天国へ昇っていった。
アンデルセンの作品です。
多くの恋をしたが実らず、独身を生涯通した、アンデルセンと重なります。
でも、こんなのは、誰にでもあり得ることですね。
この話で、恋をしても、結ばれることの難しさが分かります。
※ 北の岬の歌も、これが原点ですからね。 歌詞に出てくる日ノ出岬はここ。 オムイは雄武町のこと。アイヌ語です。 昔、この岬のそばの学校にいた。
この曲に関わって、酒の勢いで書いたブログがある。 消そうと思って消せないでいる。 これ。
明日行く新美南吉は、恋ではなく、人と人との関わりを、ごんぎつねなどの物語を通して、ずっと描き続けた人です。
若くして亡くなりますが、それを描いたのが、この人の魅力です。
いろんなお店があった。
こんなのが。
調べたら、ここの経営は大変だ。
おじいちゃん、おばあちゃんが、観光バスでやってこないと、経営は成り立たない。
観光ルートに入って。
この施設も、作るのが目的だった。 そう思いますね。(そうした施設が、全国にいっぱいある) みんな管理で苦労している。
今は、もう出来ないし、していないが。
彼岸花に似ている。
その花が咲く時期に、ほんとうは、半田市に行きたかった。
その風景が、ごんぎつねに出てくるから。
いいですね。
別の小さな温室。
花の名前は分からない。
外です。 人は少ないが、管理はちゃんとしている。 これが、デンマークの庭園か。
この国は、北だから、花の時期は短いと思う。
外を歩いた。
こんな、やわらかい雰囲気が、いい。
秋の花が、今咲いている。
これもいい。
昔のポンプがあったので、遊んだ。
ここに、戻りました。
今日は、いつもとは違う忙しさだった。
私は、郵便物が車には来ない。
車の保険の更新の手続きも、電話で出来た。
昨日、パソコンでテレビを見ようとしたら、アンテナの接続がうまくいかない。
端子が、所定の所に入らない。
その解決に会社(ソニー)と連絡を取って、ずいぶん時間を使った。
明日の午後、新美南吉記念館の駐車場に、担当者が来てくれることになった。
こういう問題の解決は、面倒だ。
おだやかに一日が過ぎればいいと、思うだけなのだが。
【道の駅】 デンパーク安城
【明日の予定】 半田市に行きます。
【今日の唄】 ショスターコービッチのワルツが、デンパークで流れていました。(YouTube) トロンボーンのやわらかな響きがいい。
庄司眞理子とさとう宗幸が歌う、CALENDARがYouTubeから消えました。
残念だなあと思っていたけど、ここにあるのを思い出しました。 いい歌ですよ。
CALENDAR(エムズの片割れ) 庄司眞理子の声が、何と言ってもいい。
【ブログランキング】 おかげで、国内旅行6位、旅行全体で17位です。
応援よろしくお願いしますね。 おどろく順位です。 これより上は大変です。
そこで生まれたかどうかは、はっきりしませんが、少なくとも青年時代には住んでいたと考えられる所です。
勘助が持っていたという、魔利支天像を見ることができました。 長谷寺(ちょうこくじ)で。 ここです。
NHKの大河ドラマで、魔利支天像を首から下げていました。
それは、今日見た魔利支天像を元にNHKが作ったものです。
小さなものでした。
写真を撮らせてもらうことも、できました。
少し眠いので、写真は遅くなります。
魔利支天像だけ、このあと1枚載せます。
安城市の道の駅にいますが、テレビがちゃんと入りません。
フィギュアスケートは、見られません。
今回の点数は、キムヨナ自身のもつ世界最高得点を上回りました。
今日の演技は、今までのフィギュアスケートの歴史の中で、ショートでは、一番ということになります。
YouTubeで見ましたが、別世界で滑っていました。
ステップでは、曲想が変わり、怒涛のようにたたみかけました。 圧巻です。
その動画も写真といっしょに載せます。
とりあえず。
像の高さは、4㎝ほどです。
高野山で修行して、授かったものです。
戦いが続くと分かった時、この寺の住職さんに預けました。

大河ドラマ、風林火山で使われたもの。 上を元に作った。

キムヨナ、スケートアメリカ、ショートプログラム(Youtube)
※ 画像の右にある、YouTubeをクリックすると、画像が大きくなりますね。
追記
情報を得るために、牛久保駅に行った。 (上の地図に)
駅のそばに、史跡巡りの地図があった。
勘助の魔利支天像がある長谷寺は、歩いて15分ほどの所にあった。
途中に、今川義元の墓があるのが分かった。 (駅の斜め右上)

墓は、大聖寺にあった。

今川義元は桶狭間で負けて首を取られた。
この場所には、昔、牛久保城があった。 義元の領地の最前線基地。(中心は、駿河・・今の静岡辺り)
家来が、首の無い胴体を、ここまでやっと持ち帰った。 そして、ここに埋葬した。(このことは、一般に認められている) ※この内容は、長谷寺で聞いた。
左隣に、一色刑部という人の墓もあった。(牛久保城の前は、一色城と呼ばれていた)


勘助は、この地では、ここに住んでいた。

ここが、長谷寺(ちょうこくじ)。

勘助のことが書いてあった。 ここの和尚さんと親しくしていたとある。


魔利支天像を、和尚さんに預けた(託した)とある。

これが、勘助の墓。

髪の毛が埋葬されている、とある。
(骨も埋葬されてるという言い伝えがある、とか書いていないところがいい、と思う)


見せていただくことが出来た。(基本的には、土日は公開していた)
お寺の方が、本堂に案内してくれた。
魔利支天像は、ガラスケースの中の、下の方に。 小さい。

ケースの中の建物の、1階に。

肉眼では、顔がはっきり見えない。 写真の撮影は大変。

やっと、撮れた。 4頭のイノシシの上に乗っている。 高野山で授かったものだ。

これを元に作ったのを、大河ドラマで使った。 懐かしい写真だ。

この寺に残る、魔利支天像縁起。
勘助は、戦死の際に、この像が他人の手に渡ることを恐れ、1560年に、この寺の和尚に送ったという。
中央下に、勘助と書いてある。

勘助からの手紙(書簡)。 (何を書いてあるか、聞かなかった)
後ろから2行目、真ん中下に、勘助と。

後世になって描かれたもの。

目が不自由だったのは、どっちなんだろう。

こんなのを作った人がいる。

上の3つの中で、どれが勘助らしいかと言えば、どれも少し違うかな。
勘助は、人の心をつかみ、人から信用されれる表情を持っていたと思うから。
こんなのもあるが、これもちょっと・・・。 由布姫に好かれるのも条件だし。(ドラマの世界だが)

やっぱり、これがいいかな。(笑)

今日は、魔利支天像を見ることが出来、よかったです。
説明していただいた長谷寺の方に、感謝します。
勘助についての今日のことは、全くの伝説には感じませんでした。
事実の可能性があると思っています。
牛久保に行った甲斐がありました。
フリーの結果は、11時前には分かります。
キムヨナは、220点台を期待されていますが、本人は、安定して200点を超えることを目標にしています。
こういうところが、この人の賢さと思います。
オリンピックに向けての完璧な自信を、あと少しで手に入れることができます。
どうなるでしょう。 楽しみです。
結果が分かったら、追記で、フリーの動画を載せます。(16日のお昼頃かな)

追記 結果が分かりました。 残念でした。 優勝はしましたが、フリーは失敗しました。
200点に届きませんでした。 その動画は見ないので、ここにも載せません。 勘弁してください。 あ~あです。
次の、グランプリ・ファイナルに期待しましょう。
【道の駅】 デンパーク安城 ここです。
【明日の予定】 半田市の新美南吉記念館は、今日休みです。 それで、この近くを少しだけ。
【今日の歌】 ロシアより愛をこめて(YouTube)
【ブログランキング】 国内旅行6位、旅行全体で22位です。 感謝します。
クリック、よろしくお願いしますね。

今日の天気は、回復する予報だった。
その予報が信用できないほどの雨が、朝まで降り続いた。
10時過ぎだったか、外は濃い霧だった。
写真を撮った。
ところが、下の写真の後、3分もしないうちに霧は消えていった。
一気に天気は回復していった。
午後からやっと動けた。(天気でなく、自分の都合)
この地図と同じものが、道の駅にあった。
歴史の小径(こみち)を全部行くことにした。
この地域は、元は作手村(つくでむら)だった。 合併で、新城市作手になった。
作手とは変わった名前だ。 由来は後で分かった。
まず、石橋城址に行った。
その場所には、今は寺が建っていた。 寺の名前は、慈昌禅刹となっていた。
昔はここに城があった。 弾正繁昌という人がいた。 主君に謀反を起こした。
でも、この城で討ち死にした。 家来40人ほどと共に。 城の一角に埋められたまなになっていた。
後年、ある和尚が、それを哀れに思って、寺を建てた。
寺の名前に、繁昌の昌が入った。
善福寺に向かった。
里山の感じの道を歩いた。
こんな所が。 どれも古い。
善福寺の仁王門。 1595年に建てられている。
この仁王像は、鎌倉時代のもの。 運慶作かもしれないと言われている。
※ 運慶作の可能性が高かったら、もっと大事に保管するかな。
ずっと昔(天長時代)、この寺に、真済僧正という、偉い人がいた。
この人が、仏像の手を修理した。 つまり、手を作った。
それで、この地域が、作手(つくで)と言われるようになった。
このように、伝説でも何でも、何かあった方が面白い。
なお、この寺は、武田勝頼によって焼かれていた。
この後、文殊山城址に行った。 特に何もなかった。 小さな祠があっただけ。
昔は信仰の山だったようだ。
木の隙間から、やっと下が見えた。 作手にある、手作り村だ。
写真の手前に道の駅がある。
葉っぱが小さく、可愛かった。 子供の手だ。
葉のギザギザの数を、イロハニホへ・・・と数えたために、この名前になったそう。
塞之神(さいのかみ)城址にも行ったが、山の上が少し平らだっただけ。
運動にはなったが。
作手の中心街に向かった。 途中に小さな池があった。
イモリがいた。 自然のは初めて見る。
イモリは、井守。 井戸を守る。 だから、水の中。(両生類)
ヤモリは、家守。 家を守る。 だから、家の中。(爬虫類)
このように、ネットで説明があった。
何匹もいたが、隠れてしまった。
山を降りて少し歩いたら、役場が見えてきた。(今は、支所か)
石の置物がたくさん飾ってあった。 と思ったら、石屋があった。
こんな表情です。
私は歩いてても、しょっちゅう立ち止まるから、前に進まない。
この時、もう3時を過ぎていた。
城跡も期待できないし、買い物をして戻ることにした。
スタンドの向こうに、農協の店があった。
買い物をしているうちに、自分は歩いていることを忘れた。
野菜や果物を山ほど買ってしまった。
リュックに詰めるだけ詰め込んで、袋を一つ持って歩く羽目になった。
こんな道を歩いた。
平らなところは、田んぼが多い。
人が歩いている。 ひょんなことで、後で、あの道を通ることになる。
亀山城址だ。 行こうとは思っていない。
やっと道の駅に着いた。 影が長くなってきていた。
車に戻って、今日は豚汁を作ろうと思って準備を始めた。
その時、車のドアを、ノックする人がいた。 年配の人だった。
外で話した。 どこから来たとか。
今日は半分見てやめたと言ったら、甘泉寺に連れて行ってやると言う。
軽トラの助手席に乗ってスタートした。
細い道を5分ほど走ったら、見えてきた。
寺の下にある、大きな杉を見せてくれた。
写真を撮っていたら、はやくこっちに来て、そばで見れと言った。 人が小さく見える。
昨日見た、鳳来寺山の大杉に負けない太さだ。
木が天まで届くとは、このことか。
次へ連れて行ってくれた。
コウヤマキという、珍しい木だ。 どこかで見たが、思い出せない。
※ ネットに、こういう文があった。
わが町のコウヤマキは、日本一と言われる甘泉寺のコウヤマキに勝るとも劣らない立派なものだ。
この文から、ここのは、日本最大級のものだと分かる。
説明はこうです。
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)という人の墓だ。 初めて聞く名前。
ここは、家康の生まれた岡崎に近いが、この人に対する人々の思いは、家康以上だと言う。
全文読んで聞かせてくれた。
敵の包囲網を突破する時の文では、その様子を演じて説明してくれた。
※ この人について調べてみた。 なかなかの人だ。
この墓は、信長が作った可能性がある。
1942年に、映画が作られている。
JR飯田線の長篠城の近くに、この人の名前を付けた、鳥居駅がある。 鳥居駅の地図。
甘泉寺の駐車場が、バスが何台も停まれる広さだった。 この人の大きさが、やっと分かった。 鳥居強右衛門(Wikipedia)
開山堂。 享保4年に建立。
天井には、こんな絵があった。
案内してくれた人は、この寺の檀家なので、勝手に本堂にも入って行った。
寺の猫も寄ってきた。
本堂も見せてもらった。 昔の駕籠があった。
見える家が、案内してくれた人の家。(下の右。 左上は息子さん) 寺に行くとき、少しだけ寄っていた。
珍しい所に案内してくれた。
ここの川の水は、橋の向こうは、向こうに流れる。 こっちは、こっちに流れる。
平地にある、分水点だった。 こういうのは、山の上にあるものだと思っていた。
向こうは、豊川。 こっちは、矢作(やはぎ)川。
詳しく説明してくれた。
読みにくかったら、こっち。
この後、道の駅まで送ってくれた。
説明してくれた人は、もうすぐ80才だ。 若く見えた。
お寺で、来年はおれもここに来る、と言った。
それだけしゃべれたら、そんなことないよって、私は言った。
鳥居強右衛門について調べ始めたら、面白くなってきた。
ブログが進まなく、終わったら、朝方になっていた。
明日どうなるか心配だ。 10時ころには起きないと、明日がなくなる。
別の話です。
フィギュアスケート・アメリカ大会のショートの結果が間もなく分かる。
どうなるでしょう。 キム・ヨナがですよ。 分かったら、追記で書きますね。
追記 点数が分かりました。 76.28。
【道の駅】 昨日に同じ。
【明日の予定】 時間があれば、勘助が生まれたと言われる所に。 まだ調べていない。
【今日の歌】 忘れ雪(YouTube)
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昔、NHKの番組で見た。 その山には寺があった。
今日行った鳳来寺が、その寺だった。 山の名前は鳳来寺山。 場所はここ。
参道の石段が1425段あるので、この寺に行くことにしていた。
鳳来寺は、下の写真の、右の山の上の方にある。

地図。

石段までの家並みは、昔の雰囲気が残っていた。

すぐに、山頭火の歌碑があった。 昭和14年の春に来ていた。
たたすめば 山氣しんしん せまる とあった。 ※ 山気とは、山中の冷え冷えとした空気のことだそう。
他の人のもあったが、山頭火のが一番良かった。

この花は、皇帝ダリア。 初めて見た。 背丈3mはあった。
そこの家の人が、名前を教えてくれた。

菊もあった。 他の菊は、もう終わったと言った。

石段の始まり。 1時間のコースとあった。

コノハズクのことが書いてある。

鳳来寺までは、車でも行けるので、人は少ない。
雨が降りそうなので、傘をリュックに引っ掛けていた。

仁王門が見えてきた。
仁王門で、下りてくる人とすれ違った。 その人は、門を出るとき礼をしていた。
そういうものなんだと、思った。



この山で、一番立派な杉とあった。 高さ60メートル。 樹齢800年。

このように、時々建物があるが、建物のあった跡の方が多かった。
どこもそうだが、昔は賑わった。 この辺りで、参道の中頃。
この建物は、松高院と名前があった。 昔は、徳川幕府と関わりがあった。

見えてる建物は、医王院。 だいぶ上った。

下ってきた人が、もうすぐだと教えてくれた。
こういうとこは、上って下りると思っていたが、下って上る人もいた。

これが、鳳来寺本堂。 美しい佇(たたず)まいだ。
この本堂は、昭和49年に再建されたもの。 大正時代に火災で失っていた。

鳳来寺がなぜこんなに栄えたかは、こうだった。
昔、松平広忠夫妻が、男の子がほしくて、この寺に来て祈願した。
生まれた子が、家康だった。
下の建物が見える。 あそこから来た。 遠くに、新城市の市街地が見えた。 正面少し右に。

本堂の上にも建物があった。 これは、廃屋一歩前だ。

それでも、本尊を安置し、賽銭箱を置いていた。 ローソクも売っていた。

これは、鎮守堂。

鳳来寺から3分ほどの所に、鳳来山東照宮があった。 日光と久能山にもあるから、3つ目。
左に上がって行ったらある。

建てたのは3代将軍家光。
松平夫妻が鳳来寺に祈願して、家康が生まれたことを知って。

本殿は後ろにある。 質素な造りだ。

戻るとき、こんな像が。

鳳来寺の後ろは、大きな岩山。 岩は屏風のように。
この岩が、ブッポーソーと鳴く声を、反響させていた。

地元の人は、その声の主を、昔からブッポウソウという鳥だと思っていた。
でも、実際に確かめた人はいなかった。
それを、はっきりさせたのが、NHKのラジオ放送だった。
その放送について。 Wikipediaには、こうあった。
その鳴き声から「声の仏法僧(ブッポウソウ)」の別名をもつ。本種の鳴き声は日本語では「ウッ・コッ・コー」または「ブッ・ポウ・ソウ(仏法僧)」と聞こえ、この鳴き声の主は長年ブッポウソウだと考えられ、ブッポウソウはその考えによって名づけられた。しかし、実際のブッポウソウは「ゲッゲッゲッ」と濁った声で鳴く。 コノハズクは奥深い山で夜鳴き、夏鳥で5-6月頃にしか鳴かないので長年正体が分からなかったが、「ブッ・ポウ・ソウ」がコノハズクの鳴き声であることがラジオ放送で明らかにされた。
1935年(昭和10年)6月7日、日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)はブッポウソウの鳴き声で有名な愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山でブッポウソウの鳴き声の実況中継を全国放送で行った。午後9時(21時)55分から30分間放送し、その間よく鳴いたが、放送中や放送後にゲストの俳人・荻原井泉水、歌人・川田順、愛知県史蹟天然記念物調査委員・梅村甚太郎の3人の話がうるさいという非難の電話が殺到した。これを踏まえて、翌6月8日はゲストを呼ばずに鳴き声だけにすることにし(番組内容を伝えるアナウンサーだけをおいた)、前日と同じ時間に放送した。すると、この晩もよく鳴き、放送終了後、昨日とは打って変わって絶賛の電話が殺到した。
その後、この放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声だ」という人がでてきて、その飼っている鳥を見せてもらうとその鳥はコノハズクであった。そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという。鳴き声も「ブッ・ポウ・ソウ」と確かに鳴き、長年の謎だった「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて分かった。

今もこの山に、コノハズクはいるのか、という問題だが、少なくなってることは事実のようだ。
地元の人二人に聞いたが、最近は鳴き声を聞かないという。
一人は、今はいないかも知れないと言った。
山の下が夜になっても明るいから、コノハズクはきっと、それを嫌っていると言った。
※ コノハズクの鳴き声を探したが、どうしても見つからなかった。
元来た道を戻った。 (別の道もあったが、整備されていなかった)

何かを探している人がいた。 何をかを聞いた。
セッコクというランだった。
木に着生するランで、この前の台風で落ちたという。

あの木にあると教えてくれた。

こんな花。(Wikipedia) 関連ブログ(ランの里)

ここには昔建物があった。 ここは今、モリアオガエルの群棲地だと言う。
春に、木に卵を産む、変わったカエルだ。


若山牧水の歌碑があった。

仏法僧仏法僧となく鳥の 声をまねつつ飲める酒かも とある。


これは、芭蕉の句碑。 1691年に来ている。

ほとんど読めない。
こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな と書いてるのだが(下の説明では)
左から2行目の上の方、芭蕉翁 が何とか読めるでしょうか。

説明。 関連ブログ、象潟や雨に西施がねぶの花。

こんな像があった。

伝説では、この人がいて、鳳来寺という名前が生まれたそう。 名前は、利修仙人。


山を降りたら、雨が降ってきた。 最初にも見た、皇帝ダリア。

行ってみると、色々なものがあって退屈しませんでした。
歌では、山頭火のが好きでした。 ( 関連ブログ)
コノハズクの鳴き声を聞いてみたいです。 Youtubeでもいいから。
※ブログが長くなったので、気に入ったところだけ読んでくださいね。
【道の駅】 つくで手作り村 ここです。
【明日の予定】 この近くを見ます。 天気は荒れる予報。
【今日の歌】 北の岬(Youtube) クリック数(再生回数)が、2つ合わせて、あと少しで600になります。
城之内早苗の歌をあと2曲。 大連の街から 雪ふりやまず(サビから入る曲。少しめずらしい)
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おかげで、ずっと10位以内です。 深夜に一時、6位になりました。 初めてです。
クリックよろしくお願いしますね。 めんどうですが。

昨日、山門まで行ってきた。
この寺の説明板があり、面白いことが書いてあった。
ニワトリが家康を助けたという。
また、他の魅力として、庭が美しいようだ。
今日、午後から行ってきた。
道の駅からは、このように見える。

山門が見える。 古いものだ。

この寺の説明がある。
その中に、伝説として残っている、家康のことが書いてある。
家康は、1573年の三方ヶ原の戦いで信玄に負けた。
岡崎城に逃げ帰るとき、ここを通ったそうだ。
※家康は、一旦浜松城に逃げるが、その後と考えていいのか。
この場所は、岡崎城までの途中にあたる。
家康は、この時まだ若く、30才だ。
夕方やってきて、この寺に泊る。
詳しくは下に書いてあるが、ニワトリの泣き声で、危機一髪助かることになる。
家康は、ここでの恩を忘れることはなかった。
後に、寺領三石(さんごく)を、この寺に与えることになる。 ※ 家光の時代に、更に20石。
ここの道の駅の名前は、鳳来三河三石だ。 意味が分かった。
このことについては、後ほどまた。

こちらは読みやすい。

山門の向こうに、本堂が見える。

1782年(天明2年)に、火災があり、この山門だけが焼け残る。

山門のそばに、お地蔵さんがならんでいた。

口の表情に特徴がある。

微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
左に、元禄十三と読める。 西暦1700年だ。 山門より7年早く作られた。
山門といっしょに、1782年の火災を見ている。

今でこうです。 紅葉のときはどうなるんでしょう。 見たいですね。

本堂は、火災の2年後の、1784年に再建されている。 200年を過ぎた。
庭園は、建物の山側にあった。
玄関で挨拶した。 奥様が庭園に案内してくれた。 賽銭箱のようなのがあり、志を入れた。

ここの庭園については、ネットで調べてあった。
愛知県指定文化財になっており、一般に知られているものだった。
この写真は、正面を広く撮ったもの。 ※ こういうときに使うレンズがある。 それがあれば、全体を写せる。

奥様がテープを聞かせてくれた。 13分ほどの長さ。
先代の住職さんが庭の説明をしている。
右の下の方。 人間がつくった、自然の美という感じでしょうか。

この庭は、山門と同じ年に作られていた。 宝永4年(1707年)
これは、左下。

小堀遠州流の庭だそうだ。 庭全体の岩で、ここに元々あったのは、3つだけだそう。
中央下の部分。 池の形は、心の字の形だそう。

石、岩、木、池の配置など、仏教的な意味を持っており、どれにも名前があった。
これは、上の方の右半分。

庭園が、ある考えに基づいて作られていることを、初めて知った。
テープの説明は分かりやすかった。 中央右の大きな木は、などど説明するので、説明の場所も分かった。
テープの声の先代の住職さんは、1回だけ、あっちに見えるのは、と言った。
私は、どっちを見ればいいのか分からなかった。
庭を見ながら、このテープに声を録音していると思った。
こういうのを発見するのが、私は好きですね。
一人で、思わず微笑んでしまった。
これは、上の方、左半分。

庭園を見終わった時、奥様が来た。
家康は、どっちから来て、どの方向に行ったかを聞いた。 伝説の中身だ。
7~8人の家来と共に、庭園の写真では、右の方から来て、西の岡崎の方に行ったという。
下の地図では、三方ヶ原や浜松城は、地図の右下。 黄色は、この寺の場所。 赤が岡崎城。
その道は、庭園の上の山の尾根伝いにあった。 ※ この地図に、点線で道が見える。 昔の道と同じと思う。

家康は寝るとき、朝ニワトリが鳴いたら起こしてほしいと頼んだ。
ところが、真夜中にニワトリは鳴いた。 その日に限って真夜中だった。
起こしてもらい出発する。 武田軍は、その後すぐに来る。
伝説は、ニワトリに助けられたとなった。
部屋の奥からは、庭はこのように。

三方ヶ原の戦いは、家康の大惨敗であり、人生最大のピンチだった。

大正時代の作品。
「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや 鶏(にわとり)に」と、書いてある。

この部屋は、隠れ部屋のような、2階の部屋。
昔、天狗党の乱があった。 天狗党の乱(Wikipedia)
それに関わった家の御姫様が、幕府に追われる。 その途中、この部屋にかくまわれる。
最後はつかまって、殺されたという。(史実として、確かなよう)

写真は、自由に撮らせていただくことができた。
本堂の中。

平安中期の作という。 ただ、素人が塗りなおしたため、文化財としての価値は下がったそうだ。

こんな表情。

たくさん仏像があった。

これは、室町時代だそう。

こんなのも。

円空が彫ったのに似ている。

詳しい説明は、お願いしなかった。

これは、本尊。 十一面観世音菩薩。

家康を助けたのと、同じ種類。

奥様に、ブログには書ききれないほど、説明をしていただきました。
家康の伝説は、この満光寺だけでなく、地域のものとして語り継がれていました。
もし、家康がここに寄っていたら、長い年月の間に、今の形になったと思われます。
伝説は、各地にあります。 その中のどれかは、本当の可能性があります。
ここに伝わる伝説は、中身がいいですね。
困っている人間を助けた。 その恩に、助けられた人間は報いた。
このような伝説が方々にあるが、このことについては、調べる時間はありませんでした。
※ 参考になるのは、小町伝説です。 それは、ここに。
満光寺の奥様に、みかんや野菜、そして、さつま芋をいっぱいいただきました。
あまいみかんでした。 さつまいもも。
それを、いただきながら、ブログを書きました。
【道の駅】 昨日と同じ。
【明日の予定】 天気が回復したら、鳳来寺に。
【今日の歌】 銀座の雀(YouTube) 森繁久弥です。
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その中に、鍾乳石があったりするので、鍾乳洞とよばれる。
でも実際は、鍾乳石のない鍾乳洞が多い。
ずっと鍾乳石は見られなかった。 あっても、少しだったり、白いものではなかった。
透明感のある白いのを望んでいた。
御殿場に住む方が、メールで竜ヶ岩洞(りゅうがしどう)を紹介してくれた。
秋葉山の下社の駐車場から、向かった。
前日の雨で、川は濁っていた。 山の状態が良くないから、今の川はすぐ濁る。
魚は、いっせいに、水のきれいな小さな支流に逃げる。

天竜川を渡っている。 上流に6月に行った諏訪湖がある。 雨はまだ止まない。

山奥ではなかった。 浜松市の引佐町。 場所はここ。
左の方から入って、右の建物に出てくる。

上の方から入って、下に出てくる。 入洞料は650円。 安い方だ。
鍾乳石があることは、案内の図で確認できた。

少し歩くと鍾乳石が見え始めた。


鍾乳石のある所には、ライトが当たっていた。

下に出来た、石筍というのだ。 白い。

一般公開している部分は、全長400㍍。
岩の隙間から、細く水が出ていた。

上から下がっている鍾乳石。 つらら石ともいう。 きれいだ。

水に映っている天女の鏡が、読める。 初め、何で逆さまに下げているか、分からなかった。

黄金の大滝と名前が付いていた。 高さ30㍍。

ストロボを使うと、水はバラバラに写った。


大きなシャワーのように、降り注いでいた。

ずっと上の穴から出ていた。 (ストロボなし)


こんな風に写った。 下の滝壺は見えない。 (この後も、見ることはできなかった)




規模が大きくなってきた。

膜のようなのがあった。


鍾乳石はもちろん綺麗だが、ライトの色に少し問題を感じた。
それは、白い鍾乳石が赤っぽく見えるのが多かった。 強く当たる部分は黄色くなって。
白は白く見せるのが基本と思うが。
ブルーの水があった。 ※ 次の日確認したら、水の中でライトアップしていた。 削除しないで、このままにしましょう。

このように左右いたる所にあった。

石花とあった。 初めて見る。

この写真は、上を拡大。 ちゃんとアップで撮ればよかった。

ここは鳳凰の間と呼ばれていた。 その鍾乳石に、圧倒された。

天井も壁も、全部鍾乳石。
光の加減で、赤く見えるのが、少し残念。
透明感のある白に見えるように光を当てるのが、理想と思うが。

奥の方は、真っ白。

いろんな形がある。

水が滴り落ちており、今も成長を続けている。

こんなのですよ。 まいりましたね。




これは、別の場所。 こんな所も。

これが、実際の明るさ。


鍾乳管。

中に穴が空いてるのが分かる。


この後、少し歩いたら、売店に出た。
これは、昔の様子。 左に入り口が見える。

岩石園があった。

さざれ石だ。 霧島神宮にもあった。 小さな石がくっついて、大きな岩を作っている。



道の駅、鳳来三河三石に向かった。
愛知県に入り、間もなく着く。

見たかったものを、やっと見ることが出来ました。
想像以上、期待以上、でした。
透明感のある白の鍾乳石、それがあったのが驚きでした。
情報を頂き、ありがたく思いました。 感謝です。
【道の駅】 鳳来三河三石 ここです。 三石は、さんごくと読み、家康の伝説と関係があった。
【明日の予定】 そばにある寺を見ます。 家康が、ここにいて、危機一髪助かったという伝説がある。
【そのほか】 昨日のブログにコメントが3つありますが、そのうちの一つは私しか読めないものです。
それは、オランダからのものでした。
昨日一緒に歩いた父さんの娘さんからでした。 お礼の内容でした。
私は、父さんにブログ名を教え、それをお子さんに伝えたら、父さんの姿が見られると話してありました。
インターネットで、世界中はつながっている。不思議な感じがしました。
【今日の歌】 知床旅情(YouTube) 森繁久弥です。 なくなりましたね。
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秋葉山(あきはさん)の頂上に、秋葉神社がある。
下から参道があり、2時間ほどかかるという。
それが魅力で、上ってみた。 神社のことは、分からない。
※ 全国の秋葉神社の総本山だと言う。 詳しくは、ここに。(Wikipedia)
9時20分に出発。
朝ご飯は食べていない。 水とお菓子一袋をリュックに入れて。
こんな道を歩き始めた。
この後、参道は上り坂になり、両側に、昔、お土産屋さんや食べ物屋さんがあった感じになった。
道路が工事中だった。
途中で休んでいたら、年配の方が上ってきた。
挨拶をして、少し話した。
この後、ずっと一緒に歩くことになった。
1.3㎞上った。 あと、2.8㎞だ。
標高差は750㍍ある。 今日は、登山だ。
常夜灯が、一定間隔であった。 1850年に設置されており、古いものだった。
今は、上まで車で行けるが、昔は誰もがここを通った。
ずっとスギ林の中を通った。 ブナ林のように鳥はいない。 少し物足りない。
昔山火事があったので、大きな木は少ない。
その家事を、写真の人は、子供のころ浜松から見たという。
私が、昔は大木があったんだ、と言ったら、
あっただよね、と私の使ったことのない言い回しで、言った。
やっと下の風景が、木の枝の隙間から見えた。 (春野町の市街地か)
写真の人を、いつものように父さんと呼ばせてもらった。
山登りには慣れているようで、休まない。
今日は暑いので、額から汗を流していた。
子供たちは今、スイスとオランダにいるそうだ。 帰ってくるのは2年に1回。
いつまでも山に登れるのはいいね、と言ったら、
いくら口が達者でも、足がダメになったら、おわりだよね、って言った。
秋葉寺に着いた。 頂上まで近くなった。
仁王さんは、こんな顔をしていた。
寺は荒れていた。 本堂の隣のこの建物だけ、ちゃんとしていた。
途中で、団体さんが下りてきた。 上までバスで行ったそうだ。
神社まで、もう少しだよって言ってくれた。
そう言ってくれると元気が出るんだよねって、返事をした。 少し話した。
標高800㍍まで来た。 後少しだ。 ※頂上は、標高866㍍。
山の上に来たら、紅葉が始まっていた。
着いた。 11時35分だった。 そんなに休まないでも、2時間15分かかった。 ここです。
上は環境が整備されていた。 参道とは違った。
火を取り扱う人が、ここにお参りに来るそうだ。
立派な建物だ。
本殿の中を覗いたが、光が反射していて、見えない。
ただ、しめ縄から下がった部分の影の所だけ見えた。
そこから写真を撮ったら、こうなった。 これは、ご神体と言っていいのかな。
空気が霞んでいたため、遠くは見えなかった。
父さんの話では、富士山だって太平洋だって見えるそうだ。
まるいのは、天狗の皿投げの的。 皿が売っていた。 こういうのって、どこにでもある。
天狗の絵があった。 皿投げとの関係は分からない。 説明の上にあった絵だが。
ここで、食事をした。 ドウダンツツジがあった。
父さんは、そば。 私は牛丼。
疲れた後で椅子に座ると、それだけで幸せを感じる。
家でダラダラしていたら、座るのも面倒くさくなって、ねっ転がる。(私のことです)
車で来た人は、向こうから来る。 私たちは、別の方から。
紅葉が綺麗だ。
睨みつけられる場所から撮影。
このドウダンツツジは大きな株だった。 鮮やかな赤だ。
一通り見たので、戻った。 もと来た、この道を通って。
途中から、この女性の方が合流した。
それまで、父さんとの会話はこうだった。
例えば、今日は暖かくていいね、って言うと、父さんは、そうだよねって、優しく相槌をうった。
のんびりとした会話で、ゆっくり時間が流れている感じだった。
その雰囲気が突然変わった。 女性の方は、身振り手振りをまじえて、楽しくよく話した。
隙間を見つけないと、なかなか話せない。
山に詳しく、あっちこっち行ってるそうだ。
昔の感じの、のんびりした時間が、急に今の時代に戻った。
これはこれで、楽しい時間だった。
駐車場まで話はずっと続いた。 二人とは、駐車場で手を振って別れた。
私は、犬井城址に向かった。 もう一つの山登りだ。 案内板に、上りは55分と書いてあった。
畑の中の道を通った。 昔は、ここを通って、秋葉神社に行っていた。 塩街道とも呼ばれたそうだ。
登り始めた。 結構続いた。 森の中は薄暗かった。
二つ目の山なので、疲れてきた。
山城を築くだけあって、斜面の急な山だった。
1時間はかからないで、頂上に着いた。 建物はなく、小さな見晴らし台があった。 写真の右に。 場所はこの辺り。
説明があった。 ここの城は、最後は家康にやられていた。 勝頼のことは書いていなかった。
こんな像があった。 ここは、後に修験の場になったようだ。
こんな表情の像は、見たことがない。
山の下に町が見えた。 春野町でいいと思う。 詳しくは、春野町犬居か。 春野高校が見える。
この時、空は曇っていて、3時半近くなっており、薄暗かった。
こういうのを明るく撮るのが、分からなかった。 撮れても偶然だった。
それが、やっと分かった。
フォーカスポイントを、割と近いところの暗い所に当ててから、写したい所を撮ると、何回やってもうまくいった。
遠い所に当てると、カメラは読み取れないようだ。(ISOは、640)
ISO640でも、普通に撮ったらこうなった。 本を読まないから、覚えるのに時間がかかる。
来た方と反対側に下りた。 この辺りにも、昔は建物があった。
向こう奥が、最初にいた所。
詳しく調べていないので、何が面白いかは分からなかった。
もと来た道を戻った。 下りは、足が痛くなった。
山の下に、イノシシを飼っている小屋があった。 初めて見るのかな。
途中で、このカボチャを持っている人に会った。
サルがかじったそうだ。
ボスになれなかった大きなサルが、山から下りてきているからだと。
こんな花が。 ツリフネソウに形が似ている。
今日のように、山登りと神社の見物ができるのは、一石二鳥の感じだ。
近くに、鳳来寺山と言う山がある。 その山に、鳳来寺がある。 テレビで見たことがある。
石段が千段以上ある。 そこも面白そうに感じる。 ブッポウソウというコノハズクもいるそうだ。
明後日あたり、行くことになるかな。
【道の駅】 いっぷく処横川 場所はここ。
【明日の予定】 この近くを調べます。 洞窟を紹介してくれた人がいます。
【今日の歌】 君をのせて(YouTube) 神社の食堂で聞こえた。 ここは、天空の神社かと思った。
栄冠は君に輝く(YouTybu) 犬居城址にいたら、春野高校から聞こえてきた。 吹奏楽かな。
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川根温泉の道の駅で、歩いて面白そうな所を探したが、見つからなかった。
夢の吊り橋とかあったが、ダム湖に架かっているものだった。
塩郷の吊橋が気になったが、地図になかったので、それ以上探さなかった。
ひと山越えて、秋葉神社に行くことにした。
山の上に神社があり、そこまで上る道がある。 それがいい。
朝、外で突然汽笛が鳴った。
機関車だと思って、外に飛び出した。
写したときは、目の前を通り過ぎていた。
秋葉神社には、大井川のもう少し上流から、国道362号線を通って山を越える。
昼少し前に出発。
10分も走らないうちに、吊り橋が見えた。 これが、塩郷の吊り橋だった。 場所はここ。
立派でないところがいい。 ただの観光用でない感じがする。
駐車できなく、通り過ぎてしまった。 戻った。
車は、バス停に停めた。 バスが来るまで、2時間ほどある。 勘弁してもらった。
少し揺れそうだし、板から足を踏み外しそうな造りだ。 気に入った。
写真を撮っていたら、若い男の人が話しかけてきた。
産経新聞の記者だ。(後で頂いた名刺によると、産経新聞東京本社の写真報道局の記者)
お願いがあると言う。
もう少ししたら、汽車(SL)がここを通るので、その時橋の上にいてほしいと。
記者が狙っている写真は、汽車が吊り橋の下を通り抜けた瞬間のものだった。
その時、橋に人がいた方が、新聞の写真としてはいいと説明してくれた。
私は、新聞の写真でなくても、その方がいい思っていた。
人がいると、橋が生きている感じがするからだ。
山寺や月山の石段に、人がいない写真を撮ってもつまらない。 それと同じ。(いなくても、撮るが)
了解の返事をした。
SLの写真を撮ろうと思って来たわけではないので、SLはどこから撮ってもいい。
向こうからこっちを撮影するので、場所を移動した。
望遠レンズで撮影する。
カメラは、CANON。 この秋に出た新しいもので、私のより少しいい。
私がどの辺りに立つかを確認して、私は動いた。
向こうから、撮影する。 私も、こっちから撮影。
望遠でも撮影。
最後の確認をしている。 この時、汽車の汽笛が聞こえた。
すぐに、やってきた。
線路は大井川に沿っているから、少しずつ上ってくる。 力強い。
間もなく吊り橋だ。 私は、普通に撮ってる。 記者は、きっと連写だ。
記者が狙っているのは、下の写真の瞬間だ。 うまく撮れたのか。
あっという間に、通り過ぎて行った。
カメラのモニターで、写真を見せてもらった。
ちゃんと写っていた。
写真の良し悪しは、吊り橋のワイヤーとの位置関係もある。
そういう面では、完璧ではなかったが、ほぼ満足できるものだった。
私は、こう言った。
最初の構想と違う写真も、別の視点で見たらいいよって。
頭を柔軟にしたら、隠れていた別の素晴らしさが、発見できるかもしれないから。
せっかく撮った写真だから、採用されるといいねと伝えた。
もし使われたら、予定では、11月22日(日)の産経新聞、探訪という記事の中だそう。 全国版だ。
私は豆粒の大きさでも、全国版に載ったことはない。
記者にお礼を言われて、私は車に戻った。
吊り橋を通り過ぎる時、記者の人が橋の真ん中で、こっちに両手で大きく手を振った。
私は、クラクションを大きく3回鳴らした。
大井川に沿って上った。
あの、箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川、と歌われた大井川だ。
大井川と別れて、山に入った。 国道362号線。 国道と言っても安心はできない。
お地蔵さんがあった。 こんなのに目が行く。
すれ違えない道が半分くらい。
どんな山奥にも、斜面がなだらかになったら、茶畑があった。
問題の場所に来た。 カーナビは、左の道を指示してきた。 県道だ。 国道は右。
ナビを無視して、右に曲がった。
ナビの姉さんは、こう言った。 そのまましばらく道なりです、って。 反省の色は、もちろんなく。
※ナビは、近い方を選ぶようだ。 コースは選択できるが、そこにもR362はなかった。 少しおかしい。
見晴らしのいいところに出た。 静岡県の山の奥。
峠の頂上に着いた。 場所はここ。
この人たちは浜松から。 小さなバイクで、ツーリングを楽しんでいた。
少し散歩した。 向こうは海の方。 山々山だ。
遠くの山の上も、茶畑だった。
峠を下ったら、集落が見え始めた。
ここは、天竜川の流域だ。
天竜川と言えば、ずっと上流には、由布姫の諏訪湖や高遠がある。 また、行ってみたい。
秋葉神社は、山の上の上社と、下の下社がある。
地図の、下社の駐車場に着いた。
ここを上って行ったら、秋葉神社下社がある。
2~3軒、お土産屋さんがあった。
右が、本殿。 そんなに立派でもない。 メインは、上社かな。 全国の秋葉神社の総本山だそう。
河原にも駐車場があったので、こっちにした。
※ 後で、そっちはキャンプ場なので、200円かかると言われた。 ただの河原に見えたけど、払った。
明日の朝は、水の補給が楽にできる。
上社は、右の山の上にある。
河原は気持ちがいい。
実は、今日は河原を探しながら来ていた。 停めてみたかった。
今日会った若い記者さんは、プロだから勉強になった。
あの人が撮った今日に写真には、吊り橋・汽車・人・周りの自然が入っている。
新聞の写真と、私のブログの写真は、共通しているところがある。
それは、芸術的な写真よりも、何かを伝える写真だからかな、と思う。
私も最近は少し工夫している。
例えば、今日の地蔵さんの写真だけど、あれは、道と地蔵さんの二つを撮った。
こんなのも面白そう。
夕日を撮るとき、夕日だけでなく、夕日に鳥が入った瞬間を撮る。
今日勉強したことをまとめてみると、
撮影したいものを、ただ探すのではなく、自分で作る、または生み出す。
そんなことでしょうか。
【停泊場所】 秋葉神社下社のキャンプ場。 上の地図の駐車場のそば。
【明日の予定】 上社に行きます。 上り、130分と地図の横に書いてありました。
それと、犬居城のあった所へ。 犬居城は、由布姫の子の勝頼が関わっている。
【今日の歌】 たき火(You Tube) 今日も、サザンカを見たので。 ピンクだった。
ゴリラダンス(You Tube) 今日見たミニバイクは、ゴリラだった。 もう一つは、モンキー。
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地図を見ていたら、焼津に花沢集落というのがあった。
どんなとこか、行ってみた。
朝、昨日お世話になったKさんにお礼の電話をした。
その時、あのエビは桜エビでいいかを聞いた。 違った。
Kさんは、桜エビが食べられる、お蕎麦屋さんを紹介してくれた。
鐘庵というお店だった。 安くて美味しいという。
そこで食べたのが、桜エビのかきあげの蕎麦。 桜エビは小さなエビだった。
殻は柔らかく、サクサクとしていた。

焼津の手前で、少し山の中に入った。
駐車場に車を置いて、歩いた。 向こうの山の右の沢に、花沢集落はある。 ここです。

ここの分岐点で、右に行く。
子供たちが、川で遊んでいた。

何を捕まえているかを聞いた。 魚とカニとエビだという。
岩の隙間に手を突っ込んで、魚も手づかみだった。 これは、珍しい。
マタギで、これが出来る人がいる。 テレビで放映されたことがある。(NHKのBSで)
※ この人だと思っています。 このブログの中の写真に。

右の子が、まず、カニを捕まえた。

その後、真ん中の子が魚を捕まえた。 ヤマメがいると言っていたが、これは違うか。
捕まえるコツを聞いたが、どうやってもヌルヌルするんだよね、と言った。
魚には、お腹かどこかに弱点がある。

いい表情で、写真を撮らせてくれた。 (ここには、載せられないが)
一緒に遊べばよかったかなと、少し後悔。
ここ、花沢集落は、国道から数キロしか離れていない。
取り残されたように、昔の姿が残っていた。

駐車所は、カーナビで見つけたが、駐車場には何の案内板もなかった。 人に聞いて来た。
観光地化されていなかった。
歩いていても、説明板はなかった。
後で調べて分かったことだが、この道は、平安中期まで古代の東海道だった。
石垣と板壁が目立つ。
少し不思議なのは、玄関が見当たらない。

お母屋はここを通った中にあった。
調べたら、このようなのを、長屋門と言うそうだ。
長屋のような家についてる門だ。 そうしたら、この門の付いてる家は何だと言うことになる。
こうだった。 昔ここはミカンで栄えた。 その時人を雇った。 その人たちが、この門のある家に住んだ。
この地域は、昔から裕福だったことが分かる。

ミカンが売っていた。 こんな売り方は他にもあった。
この値段です。 10個は入っている。 別の場所だが、私も後で2袋買った。

花沢集落は、焼津市のシンボルとなっており、市民に親しまれているそうだ。
写真では人は少ないが、多くの人に出会った。
情緒豊かな感じがした。

写真を獲ると、絵になるところがいっぱいあった。 のどかな感じがする。

家並みが途切れたら、畑があちこちにあった。 私より年配の、3人連れの人たちと一緒に歩いた。
花の名前に詳しかった。
これは、千両。
一人が、万両もあると言った。 本当かいと少し疑ったら、どこにでもあると言った。
そして最後に、植木屋さんに行けば、と言ったので、みんなで笑った。

これは、しぶ柿。 干し柿にする。

これは、ピラカンサス。

これは、モチノキだそう。
※この木の樹皮から、鳥黐(とりもち)が作られる。 強い粘着力があり、木の枝に付けておくと、鳥が捕れるそう。

イノシシが掘った穴。 イノシシはミカンの木の枝を折ったり、たくさん食べ散らかしていた。

左のは、トランペットフラワー。

初めて名前の聞くものばかりだ。
これは、オイランソウ(花魁草)。
夕方から夜になったら綺麗と説明してくれたので、どんなふうに変わるかを聞いた。
そうしたら、そこは花魁だよ、ってかわされた。

山道を歩いていたら、見晴らし台があった。 焼津の街が見えた。

見晴らし台に、寺の説明が。 周りを探しても、どこにも寺はなかった。
下にあった寺の説明かな。 この説明を読んでいたら、寄ってた。

これが、サザンカ(山茶花)だった。 初めて見た。 最初、椿かと思った。 私が、やまちゃばなだと言ったらみんなわらった。

これは、アセビ。(真ん中の木) 今はつぼみで、春にスズランのような花が咲くそう。

これがつぼみ。

こんな花。(Wikpediaより)

今日のブログは、植物の勉強になってきた。(自分にとって)
これは、カラスウリ。 花は、夜間だけ開くそうだ。

遠くに、茶畑が。

きれいな畑だ。

この人たちと歩いていた。(静岡から来ていた)
別の道で、駐車場に戻っている。

ミツバチの巣。

途中、向こうの親子とも一緒。

これは、サトイモだったかな。
美味しいねと言ったら、女の人が、煮っ転がしは美味しいねと言った。

見晴らしのいい場所に出た。

ウコン。 これは、何語なんだろうと言うことになった。 一人が、英語だと思っていたと言った。

駐車場が見えた。

子供たちが、サッカーをしている。
私の車は、行儀よく待っていてくれてる。

こんな風に、いつもきょろきょろ。 左の人は、ずっとしゃべっていた。
楽しい時間が過ぎていきます。
小さな川があったら、沢の水の音はいいわね、とか言いながら歩いた。

あるお家の前。 柿のミニだと言うんだが、私には、リンゴに見えた。

ネコちゃんと、みんなで叫んだが知らん顔。 最後に少しだけ、こっちを向いてくれた。

この花の名前がやっと分かった。 アブチロン。

これも、花魁草。 こっちが一般的なよう。

駐車場の近くにいた。 孔雀。

今日は、花のお師匠さんと歩いている感じだった。
楽しかったし、たくさんの花を覚えました。
観光に染まっていない花沢集落はよかった。
旅は、その土地を歩くのが一番と、再度思った一日になりました。
【道の駅】 島田市川根温泉 ここです。
【明日の予定】 この近くを調べます。 ここは、大井川の中流でしょうか。 大井川鉄道もあります。
【今日の歌】 ミカンが実る頃(You Tube)
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奈良時代に、山部赤人(やまべのあかひと)という歌人がいた。
その人が、田子の浦で歌をつくった。
万葉集には、こう。
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
百人一首には、こう。(これは、上を誰かが改作した)
田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ
その山部赤人が、どんな富士を見たのか。 それを見に行ってきた。
こんな碑が建っていた。 場所はここ。

一番左にありますね。 「ゆ」ってどうい意味なんだろう。 「に」なんだろうけど、ニュアンスの違いがあると思うが。

「富士の高嶺に降る雪は~」って歌があるんだが、真似したんでないだろうか。
どんな歌かって? こんな歌ですよ。 お座敷小唄(Youtube)
富士山のすそ野は、田子の浦まで、なだらかに下りてきていた。
さえぎる山はない。 そして、目の前に小さな入り江がある。
山部赤人は、すそ野の末端に立ち、この風景を見て、歌を詠んでいた。

日本平に向かった。 ここは、景色がいいことで知られている。 ここです。
母と娘が、写真のように歩いていた。 この位置に来るのを待って撮影。
いい感じの、親子でしたよ。

日本平の説明。

下に見える街は、清水市。 富士山は、浮かんでいた。

赤い靴の像がここにもあった。 今回はコメントなしです。 関連ブログ。

近くから、ロープウェーで久能山に行った。
上ったのではなく、下った。 こんなの初めてだ。
これが、久能山東照宮。 ここです。

※ ブログを書いてて気づいたんだが、勘助(介)の掘った井戸があった。 知らなかった。 残念。 関連ブログ。
これは、桜門(ろうもん)。

正面の小さい門の向こうが、本殿。

家康が亡くなった時、遺言で、ここ久能山東照宮に葬った。
1年後に、日光の東照宮が出来る。 ここの造りを基本にして。
左に本殿がある。 真っすぐ入れない。 右の方から回り込むように行った。

右側から見た本殿。

私もお参りした。 手をたたくとあったから、神社なんだなと思って。

七五三のお払いの時期なのか、着飾った子供が来ていた。

こういうのが、いくつもあった。 これにも、物語があるようだ。
神社に関係のある人なのか、熱心に説明していた。
信心深くない今の人たちに、こういうのを話して、有難みを感じ取ってもらっているようだった。

日光に似ている。 こっちが先だが。 関連ブログ。日光東照宮他。

右隣の建物。 名前は、メモしなかった。 重要文化財だった。

色の使い方は、独特のもののようだ。 緑が目立つ。

家康のお墓があった。
お墓は、日光の東照宮にもあった。 寺の人に、日光の墓との違いを聞いた。
家康の骨はここにあると言った。 日光には、毛髪などがあると。(分骨があるようにも)
ここが、本当の墓だという表現をした。
(Wikipediaには、日光が墓所と書いてあるが。)

灯篭などが本当に古いのか、見てみた。 確かに、江戸時代のものだった。

墓所から下を撮影。 日光もここも、墓所は一番高い所にあった。

紅葉が始まっている木もあった。

桜門を上から見た。

楼門の中の像。 睨みをきかしているはずなんだが、ちょっと違うように見える。

博物館があった。 これは、家康直筆のもの。(パンフレットを撮影)
※ 博物館は、撮影できないから、少しつまらない。

日本最古のゼンマイ時計。 テレビで見たことがあった。

こういうのも、実に丁寧に説明していた。 こんなのが、観光客を引き付けるのかな。 家康の遺言がある。

ここの東照宮は、日光のミニ版だった。 でも、良かったでしょうか。
実は、東照宮に行く前、ある人から電話をいただいていた。
北海道の松前で会った人だ。 8月31日。 その晩フェリーに乗った日だ。
清水氏に住んでいるという。
今晩、どこに停泊するかを聞かれた。
次の道の駅と考えていたが、三保の松原の駐車場は大丈夫と教えてくれた。
久能山を見終わって出るときに、電話することになった。
見終わって電話したら、もう待っていると言う。
三保の松原に向かった。 着いたら、ご夫妻で待っていてくれた。
そして、松原を案内してくれた。
松原の向こうは、広い砂浜だった。 伊豆半島が薄く見えた。

富士山も当然見える。 夕陽に少し染まっていた。

日本三大松原の一つ。 今まで見てきたのとは、規模が違った。

木も大きかった。 この人たちは歌をうたっていた。

これは、羽衣の松。 伝説が残っている。 伝説はここに。

案内していただいたのは、写真のKさんご夫妻。
雨の日には乗ったことがないという、懐かしいBMWに乗っていた。 ピカピカだった。
ご馳走を用意していてくれていた。

こんなごちそう。 この他に、シラスというのか、小さな魚も。
ブログを書きながら、いただきました。
このエビは、桜エビではないかな。 駿河湾の名物だ
きっと高いから、食べようとは考えていなかった。。(追記 桜エビではありませんでした。詳しくは、8日のブログで)
奥様手作りの煮ものと思うが、こんなのは、久しぶりに食べた。
美味しかったですよ。 ご馳走様でした。
こうやってお会いできるとは思っていなかったので、うれしい1日になりました。

【停泊場所】 三保の松原の駐車場。 ここです。
【明日の予定】 静岡で、もい少し見ます。 勘助井戸に行ってくるか。石段を上って。
【今日の歌】 異邦人(Youtube)
愛の終着駅(Youtube)
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それが、ランや金山を見たため、1週間になってしまった。
天城峠を歩き、コウモリのおまけがあったので、いい伊豆になった。
今日は、大きなことに気づかされた一日になりました。
旅人岬でです。
このようなことは、旅に出て、2度目のことです。 (1度目は、このブログ)
昨日のブログの続きが終わったら、昼近くなっていた。
富士市の道の駅まで、移動するだけになってしまった。
途中、何かを見つけながら行くことにした。
少し走ったら、旅人岬があった。
これは寄らないとダメだと思った。 この名前が付いた理由も知りたいし。

土肥町の港が見える。
伊豆半島の港町は、どこも湾の中にある。

富士山は山のかげ。 小土肥の地域が見える。

旅人岬とう小説があった。 作者は、笹倉明という人。

こんな本だが、読んだことはない。

石碑の文は、小説旅人岬の最終章とある。 何回か読んでみた。

この作者が見た同じような夕日は、私も見ていた。
でも、夕陽を見ての感じる深さは、私とはまったく違っていた。
1段落目と2段落目で、6つの文があるが、どれもありふれた表現になっていない。
3段落目で、それを見て、感じたこと思ったことを書いている。
もの(対象)を深く見つめている感じがする。
こんなのを書くためには、すぐれた感性と、それを表現する力が必要と思うが、書けたら面白いだろうなと思った。
私の旅は今、半田市に向かっているが、そこは新美南吉の故郷だ。
南吉は、ごんぎつねの作者。
ごんぎつねの面白さの一つに、文を読んでいたら、鮮やかにその情景が浮かぶことにある。
石廊崎のブログで触れたが、写真を撮った後、ちゃんと見ないことだってある。
だからダメなんだ。
深く見つめて文に表現することは、訓練しないとできないと思うけど、その努力を続けてみようかなと、今日思った。
半年後のブログの文が、少し良くなったねって言われるように。
小さな岬がまたあった。 旅人岬から、遠くはない。 あおの丘、と読むようだ。

丘というだけあって、岬は高い位置にあった。
海の色が、碧に見えるから、この名前にしたのか。
咲いてる花は、椿でいいでしょうか。

碧は、紺碧(こんぺき)や碧眼(へきがん)に使われる字だ。
調べてみたら、みどり深い青色とあった。
金髪碧眼という言葉もあるそうだ。
目の色がブルーに近いと、透明感があり、吸い込まれるような美しさを感じる。
※これについては、以前どこかで書いた。 そんな子供に出会ったことがあるので。
戸田という町から、山に入った。

少し上った所に、墓地の駐車場があった。 そこから見た戸田の町。 場所はここ。
山に入ったら、急にミカン畑が多くなった。

遠くに、小さな棚田が見えた。 北山棚田というそうだ。

真城峠を通って海に出た。 真城峠はここ。
内浦湾に、ヨットハーバーがあった。 ヨットに乗ったことはない。 場所はここ。

千本松原を通っている。 この手前だったかな、イオンに寄って、食料品などを買った。
沼津では渋滞があって、時間がかかった。

国道1号線に出た。
ほぼ、旧東海道の上を走っている。 1号線は東京から大阪まで。
※カメラが、斜めになった。 車に固定する方法はないかな。 そして、シャッターを押さないで撮影できればいい。(考えてみるか)

ここが道の駅富士。 国道を挟んで両側に道の駅がある。

ここは富士というだけあって、富士山は目の前だ。

札幌のTさんがこんなのを作ってくれた。 ブログの一番上に貼り付けたいが、方法が分からない。
気に入ったデザインです。

これからは、写真を撮った後、自分の目でも撮る。
そうしたいと思います。
(心で撮ると言ってみたいもんです)
ブログの文が急に変わることは期待しないでください。
勉強のスタートです。
【道の駅】 富士 場所はここ。
【明日の予定】 田子の浦が近くにある。 行ってみようかなと。 他は、明日調べます。
【雑記】 数日前、車の雨漏りをなおした。 そうしたら、雨は降らない。
【今日の歌】 夢をあきらめないで(YouTube)
【ランキング】 ご支援により、国内旅行7位、旅行全体で12位です。
驚く順位になってきました。
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朝起きて散歩した。
お年寄りの人たちが、パークゴルフのようなのをしていた。(九州でやったことがある)
私の車が見える。 今晩も同じ場所。
向こうの山には、たくさんの坑道があった。
今日は伊豆を出る予定だったが、したいことがあったので、それをすることにした。
散歩の後、昼ころまでかかった。
世界一の大きさの花時計とあった。
右に見えるのが、観光案内所。
案内所に行って、土肥で観光地でなく魅力的なところはないかを聞いた。
今日行ったところ、3か所を教えてくれた。 (3か所とも、誰にも会わなかった)
これは、足湯。
手湯もありました。 初めてみますよ。 手を洗ってもいいのかな。 手はカメに入れるんだ。
これは、上の写真にある石碑の説明。 この町が、細うで繁盛記と関係あるなんて知らなかった。
Wikipediaの説明は、こうです。
続編では、加代は正子たちの策略にかかり山水館の経営権を奪われてしまう。失意の加代は、半島の西海岸にある土肥にあてもなく流されてしまう。そこで安楽館の若い主人と知り合い、新しい旅館海花亭を開く。しかし、土肥は金鉱山の採掘に伴い源泉が枯れ温泉地として危機に瀕していた。加代は俊作を助けて土肥温泉復活のために働いていく。善三たちが山中で見つけた新しい源泉によって土肥温泉は復活した。
雰囲気がよかったので。
駐車場や温泉や、今日行くところに○がついている。
郵便局での用事を終わらせ、車をスーパーの駐車場に置いて、安楽寺に向かった。
まぶ湯というのがある。
こんな果物がなっていた。
デコポンとは違うのだろうか。
まぶ湯と聞いた時、どんな温泉かは見当がついた。
まぶ(間歩)の意味は坑道、ということは、どこかの鉱山で聞いていた。
まぶ湯は寺の右の方にあった。 受け付けで、150円払った。
まぶ湯の説明。
昔の坑道にあった温泉。 ※坑道に温泉があったのは、昨日のブログに。
手を入れてみたら、ちょうどいい温かさ。 入浴はできないが。
お地蔵さんだ。 目と口元に表情がありますよ。 いい顔だ。
少し奥に入ったら、こんなのが。
ライトのぞばに、植物が。 造花でなかった。
柵があって行き止まり。 祠(ほこら)があった。
珍しい温泉を見た。 こんなの見るのは楽しい。
紹介してもらった、清雲寺に向かった。 大きな絵がたくさんあると言う。
こんな花が。
ここは、無料。 奥様でしょうか、掃除をしていた。
日蓮が登場する、ある物語を描いているそう。 明治時代の作品。
車に戻って、天正金鉱に向かった。
ここがそこだが、観光客は誰もいなかった。 入場料は600円。
坑道は建物の後ろの方。
受付にいた、年配の人が説明してくれた。
ここは、釜屋敷と言われ、発掘して発見された。
アマルガムの説明がありますね。
金は、鉱石からどう取りだすかだが、こうなんですね。
とにかくすりつぶして、そこに水銀をまぜる。
水銀は、金と銀を吸い取るい性質がある。(この過程では、熱を利用するのかな)
金と銀を吸い取った水銀を、アマルガムという。
この状態で、駿府(静岡)や江戸に贈られたそう。
水銀は、熱を加えれば蒸発する。 (これは、体にとっても悪い)
下のが、金銀を吸い取られた残り。
管理人さんは、とにかく説明がくわしい。 ずっとメモしていた。
ここでの説明が長いから、坑道に入れない。 不満は全くない。
金に関わる役所は、江戸・駿府・京都にあった。 土肥には、駿府の出張所のようなのがあった。
白い所に、金鉱石があると聞いていたが、それでは不十分がった。
白い中にある、黒い部分だった。 銀は錆びたら黒くなるそうだ。
ここの坑道の長さは、約60m。
江戸時代には、このようなのが多かった。
それ以上長くすると、空気を入れるのが大変になるそう。
ここの坑道の説明。
やっと坑道に入れる。 柿木間歩とあった。 昔そばに、柿の原種の大木があったそう。
入り口の下を見たら、岩が縦にさけていた。 ここが金銀鉱脈だという。
地下のマグマが、岩の隙間とかを、下から吹き上げてくる。
その時、金や銀を取り込む。 それが固まったのが金銀鉱脈。
綺麗な均一の岩の中には、金はない。 見慣れてくると、鉱脈はすぐに区別がつく。
山師は、岩肌にあるこのような部分を見つけるのが仕事。
昨日の坑道より狭い。 階段で下りていく。 このように掘ったのは、松明(たいまつ)の煙を逃げやすくするため。
薄黒いところが、タイマツの煙の跡。
天井にあいてる、縦坑。 地表まで、23㍍。 空気をとりいれたり、煙を逃がす。
一つの穴だが、上に向かう流れと、下に下りる流れができるという。
手彫りの跡が分かる。
はっきりデコボコしているのは、声の反響を小さくするためだそう。
そういえば、昨日の坑道には、手彫りの跡がなかった。
聞いたら、あれは明治時代に掘った坑道だそう。
坑道はこんな感じ。
これも金の鉱脈。 金の鉱脈に沿って掘り進める。
マグマは、岩の割れ目を下から吹きあがるから、鉱脈は縦にある。
ここの金鉱の正式な名前は、龕附(がんつき)天正金鉱となっている。
それは、坑道の奥に、祭壇(仏壇)のような龕(がん)があるから。
掘り終わったとき、山神を祭ったそうだ。
どうして、龍が合わさると書く、龕と言うのかだが、
鉱脈は金銀鉱脈と言われるように、金の鉱脈と銀の鉱脈が合わさっているから。
そして、鉱脈が龍のようにうねっているから。
上の写真にコウモリが写っているのだが、この時まだ私は気付いていない。
管理人さんも、いることを話してはくれてなかった。 ※珍しいと思っていないようだった。
○の中にいる。
奥の方(がん)に近づいた時、何かが私のそばを飛んだ。
管理人さんは、コウモリだと教えてくれた。
私が怖いと思ったのか、大丈夫だよと言った。
2匹いて、1匹はぶら下がったままだ。
動物にはストロボは使わないようにしているが、コウモリは大丈夫だ。
ここで見られるとは思わなかった。 心が躍った。
管理人さんは、説明を続けていたが、聞こえなくなった。
大きな耳だ。 片方の目が写ってる。
小さい。 翼を広げても掌(てのひら)くらい。
かわいい。 ネズミのような感じは、全くしない。
触ってみたくなるようなお腹の毛だ。 耳は、パラボナアンテナ。 超音波を受ける。
写真の撮影は慎重だった。 感度を高くしたのが、鮮明に写っていた。
写真で分かったが、コウモリは常に動いていた。
名前は分からない。(後で、電話で聞いたが、分からないと言った)
管理人さんには、聞こえていなかったことを話し、もう一度説明してもらった。
天井に鉱脈があるのが、分かる。
途中から、別の坑道を通って外に向かった。
この坑道は、明治に掘られたもの。 だから、ノミの跡がない。 ダイナマイトを使ったそう。
またいた。 飛んできた。 ヒラヒラヒラという感じ。 天井に留まった。
話はまた聞こえなくなった。 今度は管理人さんは話さなかった。
ここの坑道には、5ひきくらいいるそうだ。
これも、鉱脈。 鉱脈は、標示がなくても、すぐ発見できるようになってきた。
この管理人さんは博識で、マシンガンのようにしゃべった。
それが私にとっては、とても有難かった。
伊豆は、金山や温泉が多い。(地球内部のプレートが、ここでぶつかっているから)
秀吉は金に執着があった。 全国の金を集めた。
でも、家康は、ここ伊豆の金には手をつけなかった。
秀吉が死んだのを確認して、伊豆の金を掘り始めた。
そう説明してくれた。
昨日は、少し気落ちしていた。 本音をストレートには書けなかった。
でも、今日は良かった。 本物を見ることができた。
それも、コウモリという、おまけまで付いて。
天正金鉱と管理人さんと、そして、コウモリに、ありがとうです。
(写真の枚数が多くなりましたが、今日は特別)
【道の駅】 同じです。 昨日の温泉に行ったら誰もいなかった。 写真が撮れました。
【明日の予定】 道の駅、富士に向かいます。
【雑記】 晩は、カレーを作って食べました。 作ったカレーは美味しい。
【今日の歌】 風の向こうへ(YouTube) 嵐が好きな子がいるので。 詞もメロディもいいですね。
※いつかのブログに書いた、空はつながっていると言ったSさんです。
中学生活を、友達と一緒に、楽しく送ってくださいね。たいへんなことが何かあった方が面白い。(Sさんへ)
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雲から、頭を大きく出していた。

クリスタルパークが近くにあったので行ってみた。
万華鏡を見るためだ。 お店に見本品が一つあった。
写真が撮れるのか試してみた。 小さなのぞき穴からどう写すかが難しい。
とりあえず撮ってパソコンで確認したが、はっきり写らなかった。
入場料を払って入るのはやめた。
万華鏡の撮影方法をネットで調べたら、カメラを固定するなど、難しいことが分かった。
※ 花などの写真を使って、万華鏡のような写真が作れることが分かった。
時間のある時に挑戦してみます。
仕方ないので、土肥(とい)金山に行ってみることにした。
本物が多くあればいいなと思って。
途中、恋人岬があった。
ここは、元々は廻り崎という名前だった。1983年に地名を恋人岬に変更した。
昔から、恋に関わる伝説があったようだ。(この岬で愛を誓ったというような内容の)
伊豆全体が、観光に熱心だ。

伊豆半島もだいぶ上がってきたので、海の向こうが見えてきた。 清水市や静岡市辺りか。

土肥金山は、大きな観光施設だった。 場所はここ。
売店の右から、入って行った。

施設全体はこのように。

この建物は、資料館。 右の山に、観光坑道がある。

江戸時代と、明治に入って、2度栄えたとある。

読みずらかったらこっちを。

坑道の入り口。

中はこう。

ここまでで、何が分かったかというと、観光坑道と言っているので、本物というより観光用に作ったということ。
もう一つは、坑道が細いので、江戸時代を再現したということ。
この雰囲気は、少し物足りない。 普通のトンネルだ。
たての柱は、上が太い。

こんなのがあって、人形が動いていた。 土肥千軒の賑わいだったそう。
坑夫がここで遊べることはなかったでしょうね。
坑夫は肺をやられるから、30歳くらいで亡くなる人が多かったそうだ。


坑道の雰囲気は良くなってきた。 見えるのは神社。
昔は今より、神頼みが重要だった。

岩盤に金鉱脈があった。 白い所が鉱脈と標示があった。

坑道は、人が歩いて頭がぶつからない高さ。
昔はこれを手で掘ったわけだ。 1日に何m進めるのだろう。
青の洞門は有名だが、苦労の内容は同じではないかな。 関連ブログ。

こういう展示が続く。
昔を再現している、ここの金山の特徴は、狭い範囲に凝縮させて、全体を展示しているところでしょうか。
金山を知るには、とても分かりやすかった。
私が見たかった本物とはほど遠いが。
全体が岩だったら支える必要はないと思うが、そうでもないのか。


洞窟はたいてい寒いが、ここは暑かった。


空気を送るために、管のようなものは使うのか、それは確かめなかった。


大変な仕事だから、賃金は良かったのか。
そうとも限らないか。 きっと、働くところがなかったから、ここに来た。


昔の実際の明るさは、どのくらいなんだろう。 そこを歩いてみたいかな。

風呂があったって初めて聞く。 これは、伊豆だからの話ではないかな。


出口に向かっている。

延命を願うとあるから、坑夫は長生きできないことを知っていた。


出口近くにも鉱脈があった。 山肌の鉱脈の発見によって金山は見つかるのか。
川から砂金が出たら、上流の山に金があることが分かる。

資料館に行った。 昔の作業風景。

鉱石を砕いて、更に小さくする。 大変な作業。

金の延べ棒があった。 ケースの穴から手を入れて持ってみたが、持ち上がらなかった。
磁石にくっついているように重い。

これだけの岩から、たったこれだけ。

これが世界最大という、250㎏の金塊。 確認したが、本物。
この山から、40トンの金が産出されたというから、これが160個分になる。


金鉱石、白い線が入っている。

日本各地の砂金が展示されていた。 ペーチャン川のもあった。 昔、息子と行った。

その時の砂金がこれ。 大事な思い出なので、車に積んでいた。 息子は小学生だった。
体験施設でなく、実際に川でとったもの。


ここの金山は、昔の雰囲気を味わうという面ではいいですが、本物がない問題がありました。
坑道は、昔のを利用していましたが。
そういう面では、九州の鯛生金山は違いました。 坑道をずっと奥まで入ることができました。
掘った現場を見ることができました。 関連ブログ。
また、規模は小さいですが、多田銀銅山は坑道だけでなく、その周りも昔を残していました。
ここが今まで、一番良かったところです。 関連ブログ。
きっと、残す目的が違っている。
【停泊場所】 土肥金山の近くの市営駐車場。
【明日の予定】 伊豆を出ます。
※観光地でない何かを探したが、見つけられなかった。 歩かないとダメかな。
【雑記】 駐車場のすぐ近くに、公衆浴場があった。 400円。 ※伊豆の相場は、1000円以上。
小さな温泉。 洗い場は五つ。 湯船は、5人位しか入れない。
石鹸もシャンプーもない。
でもいい。 湯の出口には湯花が付いて、温泉の雰囲気だ。
湯の温度も42度はある。 久しぶりにいい温泉に入った。
【今日の歌】 伊豆を離れるので、もう一度伊豆の踊り子を。 伊豆の踊り子(Youtube)
※これは、今日YouTubeに載ったものです。
私にとっての伊豆の魅力は、90%天城峠にあったように思います。
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以前、テレビで幻のランを、熱帯の山奥に探しに行く番組があった。
変わった花だなと思った。 丸くなかった。
詳しいことは何も知らないが、行ってみた。
温室が一つか二つの施設かなと思っていたら違った。
山の斜面に、たくさんの温室があり、堂ヶ島を見下ろせる展望台もあった。
入場料は1300円と高かったが、十分に価値はあった。 場所はここ。
施設の配置図。

受付をしたら、エレベーターに乗った。 出た所がここ。
ただの温室ではなかった。


ここには、世界中のラン約400属8400種があるという。
そして、1万鉢が展示されていた。 (ランは感じで書くと蘭)




この花が、もし山の中で急に現れたら大変だ。 びっくり仰天する。





ランは、新しい品種が、研究によって作り出されているようだ。
その施設が、ここにもあった。
どの花も形が複雑だ。
華やかと言ってもぴったりではない。 豪華とも違う。
それぞれの花が、目一杯自分の美しさを表現している感じがする。

最初の部屋は花壇だったが、こっちは自然を意識してつくられていた。

根が空中にあった。
管理人に、水はどうしているかを聞いた。
霧吹きでかけてると言った。
自然界では、霧の多い所に生えているそうだ。


このランの花にぴったりの芸能人は誰かを考えた。
華やかさや気品だけでなく、繊細さも必要だ。
見つかった。 伊藤蘭です。(じょうだんです)
むずかしいです。 和風っぽい人はランではない。
蒼井優は、ランに変身はできると思うが、少し違うかな。



別の所に、ランの原種があった。 神秘的な感じがする。

珍しいものとは、管理人から聞いていた。


ここは、別の形で展示していた。 落ち着いた感じのランが多かった。

ランは人間が作り出したものが多いが、どうしてこういう形や色にする必要があったのでしょうね。
虫は、形の良し悪しが分かるのか。



形は色々あっても、横に広がってるという面では、共通でしょうか。

花が小さい。 こんなのは少なかった。

これも、小さい。


ジャングルの雰囲気。


全体のデザインは、洗練されたものだった。

こんなのも。



優雅という言葉も使えそう。

ここで、お遊びの問題です。
変わったのがあったので、この人に、この花の名前は何ですかと聞いた。
では、この人は、花の名前を何と言ったでしょうか。
答えは、写真の下に。


答え。 シランと教えてくれました。 とぼけた顔するなってね。(笑)
大きい。

花は自分で考えてる訳ではないのに、どうしてこうなるんでしょう。

これなんかは、何と表現したらいいか分からない。

ここは、最後の部屋。

紫も多い。 紫より、パープルという感じか。


これもランか。 違うでしょうね。 食虫植物とか、他のもあった。

この写真を撮って、次に行きました

これで、山の上に行った。

堂ヶ島は、この海岸線が魅力。

天気がいいと、海の色もいい。

堂ヶ島は温泉街でもあった。

次の道の駅は遠いので、黄金崎(こがねさき)の駐車場に向かった。 場所はここ。

遠くに富士山が見えた。 上の方だけ少し。

夕陽を見るため、たくさんの人が集まってきた。

富士山にも夕陽があたった。

久しぶりに海に沈む夕日を見た。

自然の花は、そのままの花。
多くのランは、化粧をして美しく着飾った花でした。
だからと言ってわるいわけではなく、洗練されていることもあって、美しいものでした。
自然の中で出会うのと比べたら、感動は少し小さいですが、ランにには人を惹きつける大きな魅力があると感じました。
初めて見ました。
【停泊場所】 黄金崎の駐車場。
【明日の予定】 近くで万華鏡が見られます。 また、昔の金山もある。 隠れた何かを見つけたいが。
【今日の歌】 久しぶりに、北の岬(YouTube)
【ブログ順位】 ご支援により、国内旅行9位、旅行全体で19位です。
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実は、今日から写真を一回り大きくしてみました。
新しいパソコンの画面が、横に広くなったので、写真が左に寄っています。
写真は、まだまだ大きくできます。
でも、重くなると思うし、前のビスタの画面なら、これが限界かなと思うので、ここまでにしました。
※追記 今日の一番大きいサイズより、もう少し大きいのが使えそうです。
今は、5日分が表示されますが、後で、3日分に変更します。
伊豆には素敵な名前が多い。
修善寺、浄蓮の滝、天城峠、そして今日行った、弓ヶ浜、石廊崎(いろうざき)。
名前を考えた人のセンスの良さを感じます。
石廊崎に向かった。
途中何回も、地域のお祭りに出会った。 この時期だから、秋祭りだ。
ここは、弓ヶ浜の少し手前。 南伊豆町になる。
木の模様が綺麗だったので、車を停め、見に行った。
太鼓が聞こえた。
色んな人がたたいていた。 子供も。
天狗もいた。
この辺りは、走りやすかった。
山越えの連続を覚悟していたが、違った。
野菜や果物を売ってる店で、ミカンを買った。 12個くらいで、250円。
そこで、聞いてみた。
ここは昔、浅い海だったと言った。 川の土とか砂が溜まったのか。
この後、こんな道はなかった。
途中、弓ヶ浜に寄った。 夏は海水浴で賑わうようだ。
広い砂浜と松の林があった。 少し風景がいいという感じだった。
暗いので、写真は難しい。
特に面白いものはなかったので、蜘蛛を写した。 蜘蛛のお腹。
石廊崎に近づいたら、またあった。 さっきより人が多い。
ここは、南伊豆町の石廊崎という地域。 神社が二つある。
獅子舞をやってた。 見てても、意味は分からなかった。
子供もたくさんいた。 大人は酒を飲んでいた。
獅子は時々酒を飲まされていた。 激しい動きなので、大変だ。
そばにいた人が、神社が二つある意味を教えてくれた。
石廊崎の地域は二つに分かれていて、それぞれの神社がここにあるそうだ。
面白いのは、右の神社は、左の方にある地域の神社。 左の神社は、右の地域の神社。
お互いが仲良くするために、こうしたのかなと思った。 いいアイディアだ。
伊豆は、まだ花がいっぱい咲いている。
ハイビスカスでいいのかな。
花は、まだ元気いっぱい。
石廊崎の駐車場に着いた。 右の方に上って行く。
坂の途中で撮影。 駐車場のある港は、狭い入り江の中。
石廊崎は、伊豆半島の南端にある。
ここが石廊崎。 詳しい地図ではここ。
石廊崎という名前は、昔よく聞いたが、何で聞いたんだろう。
天気予報か。 気圧の配置のラジオ放送か。 何だったでしょうね。
太平洋が、広く見渡せる。 また、伊豆の海岸線の様子が良くわかる。
海の色は、濃いブルーだった。
来る途中に石室神社があった。 どうしてこんな所に無理して作るんでしょう。
石廊崎に来ましたが、岬としての風景は、いい方でしょうね。 そう、思いました。
私は、人が眺めているのを見て、何かに気づくことが多い。
これも、それ。 ソテツの実だそう。
赤い実だ。 初めてみる。
そう言えば、古い歌に、「赤いソテツの実も熟れる頃・・」という歌がありましたね。
ふつうは、知らないかな。 こんな歌です。 島育ち(YouTube)
こんな花が。 写真に撮ったら綺麗だった。 ちゃんと見とけば良かった。
時々、写真に撮っただけで、自分の目でも見たつもりになっている時がある。
上から見た駐車場。
こんな像があった。
古い時代の人だ。 石室権現と書いてあるのは、岬の石室神社のこと。 また、こっちに来ると、アロエの名前が目に付きます。
この後、今日の道の駅に向かった。
ここは、愛逢岬。 小さな岬。
ここも、伊豆の海岸の感じ。
こんな所も。
むこうに見える半島に、野サルがいるそう。 波勝崎(はがちざき)。 レンブラント光線が見える。 レンブラント光線(Wikipedia)
石廊崎自体はいい所でしたが、問題がありました。
それは、駐車上から岬までの間に、閉鎖されたお店などの観光施設の廃屋がたくさんありました。
大きなイメージダウンです。
今まで見た岬の中で、環境も良かったところはどこだろう。
積丹の神威岬とか、函館の立待岬あたりかな。 最悪は、佐多岬。
【道の駅】 花の三聖苑伊豆松崎 ここです。 松崎町で野菜や肉を買った。
【明日の予定】 伊豆の海岸線を上ります。 あるところで、ランの花が見られそう。
【今日の歌】 昨日分からなかった、台湾の女性の歌手が分かりました。
名前は蔡琴 (ツャイ・チン) 他の歌を探したら、夜来香(イエライシャン・支那の夜)を歌っていました。
※夜来香は、南国の花で、夜になったら、香りが変わるそうです。
夜来香(支那の夜)(YouYube)
上戸彩が歌うのも載せます。
夜来香(支那の夜)(YouYube)
上戸綾は、李香蘭(山口淑子)に扮しています。
※李香蘭は、日本人であることが証明できたので、日本に戻ることができた。
でも、川島芳子はそれができなかった。そのため銃殺される。 関連ブログ
【ブログ順位】 ご支援により、国内旅行10位、旅行全体で24位です。 今までで一番かな。
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親父が戦争でニューギニアのアンボン島に行くとき、この港から重巡洋艦鳥海で行った。 ※名前は鳥海山から。
20歳ころのことだ。
私が小さい頃は、たまに戦争のことも話してくれた。
大きくなってからは、話さなくなった。
※ 親父は戦争が終わって、1年後に戻ってきた。 1年間ジャングルの中をさまよったそうだ。
何でも食べたと言った。 後半は、原住民との関わりもあったようだ。
※ 重巡洋艦は、大きな巡洋艦のこと。
鳥海山に登ったとき、この船のことは思い出さなかった。
※鳥海山は、一番好きな山になった。 関連ブログ。12時間近く歩いた。
親父の父親は秋田の出身だから、船の名前に親しみを感じていたかもしれない。 関連ブログ。
道の駅開国下田みなとの駐車場。
向かいのホテルは、黒船ホテルだったかな。 ここの温泉を利用している。

道の駅の隣にある建物。 お土産や魚が売っている。

上の建物の向かいに、漁協がある。
下の写真は、昨日の夕方撮影したもの。
テレビ局が、何社か来ていた。 建物の入り口を狙っていた。
※ 携帯で撮影。 撮った瞬間、この人が振り向いた。

船の遭難事故があったが、助かった3人がこの建物の中でインタビューを受けたそうだ。
私はテレビをほとんど見ないから、世の中の状況に疎い。
(今晩、日ハムが勝ったことは知っていますが)
港に黒船があった。 ホテルの向かい側辺り。 観光船だ。

何で、下田が黒船なんだ、と思った。 調べてみた。
幕末に黒船がやってきて、日米和親条約を結んだ。
その時、細かなことは、この下田で決めたそうだ。 (下田条約と言われている)
文句はないか、ということになった。
漁協の前の港。 向こうの方に、公園や、下田海中水族館がある。(高いから、行く予定はない)

ジャカランダの木があった。 初めて知ったし、初めて見る。
世界3大花木と説明にあった。
名前のインパクトは、強烈。

ペルーとか、熱帯アメリカの木だそう。
ここは暖かいから育つのか。(沖縄では、大丈夫)
※ 北海道では雪が降ったというのに、下田は暖かい。
今朝は、6時ころから10時まで寝たが、暑くて目が覚めた。
写真で検索して見つかったもの。 遠慮して小さいのを。

こうやって咲かれたら、昨日の河津桜も負けそう。
花は、細長いのか。

ラベンダーもそうだが、薄紫の花は、気品がある。
※ 余計な話だが、薄紫の服を着ると、気品が出るかというと、そうとは限らない。
似合ってないと、駄目でしょうね。
木の向こうに、変わった像があった。

裏側は、ペリー。

こんな説明が。

新島に行ったら、たくさん見られるのか。
調べてみたら、運賃が高かった。 往復8000円くらい。
人気があるようだ。 東京の忠犬ハチ公の近くにもあるという。
以前、一つの像を希望者にプレゼントするのがあったそう。
3000通の応募があって、ウェスパ椿山が当たった。
夏に、五能線に乗った所だ。 行ったけど、あったのは気付かなかった。
わるくない像だと思いました。
こんな花が、そっと咲いていました。

津軽で見た、マグロの1本釣りの船に似ていたので行ってみた。
事務所の人に聞いたら、アジを獲る船だそう。 竿はどう使うのか。

ここで雨が降ってきたので、戻った。 駅の方まで行きたかったが。
冬は伊豆も暖かいと聞いていたが、本当かもしれない。
秋が深まっているのに、夏のようです。
【道の駅】 昨日と同じです。
【明日の予定】 海岸線を走ります。 いいところを見つけます。
【今日の歌】 湯の町エレジー(1) 島倉千代子です。 まあいいでしょうか。
湯の町江レジー(2) 台湾の人かな。 何者なんだろう。 静かに歌って、上手ですよ。
湯の町エレジー(3) アコーディオン プロなのか? だまされたと思って最後まできいてみて・・。
※ (2)と(3)が、とにかくいい。
【ブログランキング】 国内旅行14位 旅行33位 上がりました。 ありがとうございます。

【雑記】 ブログが書き終わったら、音楽を聴くことが多いんですよ。 そして、寝るのが2時とかになってしまう。
その時が、自分の時間だなって感じます。
YouTubeを渡り歩きます。 隠れたいい曲はなかなか見つからない。 でもたまにある。
今日は伊豆の歌の、湯の町エレジーを聞いた。 いいのがあった。