ラーメン好きが集まって、札幌のラーメンを話したとき、富公が登場しないことはない。
もう、16年も前に閉店しているのに。
富公のレベルは、今有名な純連や五丈源は、足下にも及ばない。
ラーメンは好みの問題だと言うけど、富公を食べて、それを口にする者はいない。
昭和44年の秋の終わり頃、初めて私は食べた。
札幌の予備校に通っていた年だ。 本で調べていった記憶がある。
当時の場所は、丸井のススキノ側に道路がある、その、もう1本ススキノ寄りの中通り。
その店で食べたのは、1回だけ。(この店は、昭和35年開店)
(※ その年は、最初のラーメン横町が取り壊された年で、まだ、龍鳳という店が残っていた。そこで、初めて、味噌ラーメンを食べた。 感動の味でした。 次の年の冬札幌オリンピック。道路拡張のため取り壊す)
店は、その後、狸小路7丁目に移転する。 アーケードがなくなる辺り。
店主は、「菅原富雄」さん。
ラーメンの修行は、三平。 味噌ラーメンを発明した創業者の大宮守人さんから学んだ。
(※ これは、本当の話かどうかは分からないが、富公は三平を越えた。それがあって、三平は、店で修行した者に、新しく店を出させることは、その後なかった。)
私は、狸小路に店が移ってから、何回くらい食べたでしょう。 7、8回か。
札幌に行って、食べなかったことは、一度もない。
店の作りは、角にあるため、入り口が二つあった。
L字型のカウンター。 8人くらい座れた。 後ろに、待つ人のための、長いすがあった。
店は、いつでも混んでいた。 午後3時頃でも。
真っ直ぐカウンターに座れた記憶はない。
外に並んでいる時もあった。
開店は、午前11時。 10時45分くらいになったら、どこからともなく人が集まる。
店の中に、会話はなかった。
話してダメなわけではないが、おしゃべりする雰囲気ではなかった。
うるさかったら、怒るんでないかと、だれもが、菅原さんを見て思った。
本当は、やさしい人。
二人連れで行った時、まず空いた席に座ることになる。 別々になることもある。
そのことを、おやじさんは、ちゃんと覚えていて、「おい、空いたぞ。こっちに座れ」と、二人を隣同士にさせていた。 照れくさくて、優しくは話せない感じの人だった。
もし、お客が戸をちゃんと閉めなかった、「こら、戸を閉めれ」って、言われた。
客は、話しをしないで何していたか。 ずっと、おやじさんのラーメンを作るのを見ていた。
退屈しない。 誰が見ても。
作るときに、山場が2つあった。
一つ目は、鉄のフライパンに油を入れ高温にし、そこに、モヤシとタマネギを入れる。すぐに、ボワッと1㍍ほどの炎があがる。 それに、みんな驚かされる。
二つ目は、茹でた麺の湯を切る動き。 網に入れたメンを高く放り上げ、それを網で受けて、「バシッ」て、思いっきり湯を切っていた。 麺をドンブリに入れた後、網に付いた湯を釜の縁に打ち付けて、落としていた。
初めての客は、みんなびっくり。 緊張感が漂う。
常連の客は、それが楽しみ。
みんな黙って食べる。 恋人同士だって、話しはしない。
誰もが行儀良く食べる。 残す人は、滅多にいない。
ライスは、皿で来る。 ライスが、皿の中でだらしなくならず、儀式かのように、端からきれいに食べてる客を何人も見た。 私もそうした。
店の中には、おやじさん一人。 奥に女の人がいた。(多分女の人。奥さんか)
顔を見たことはない。 奥(隣)では、洗い物と、ご飯の盛りつけをしていた。
片付けも、一人でしていた。
出来たラーメンを客に配るとき、片手で持っていた。 だから、いっぺんに二つ。
どう持つか。 親指をドンブリに、引っかけて持っていた。
親指が、スープの中に入るのは、しょっちゅう。
それに文句を言う客もいないし、きたないと感じ、いやな顔をする者もいない。
熱いはずなのに、その素振りは見せない。
食べ終わって、店を出るとき、「ごちそうさま」と言ったら、いつも「おっ」って一言。
それから、いつも、高下駄を履いていた。
また、雑誌などの取材は、絶対に受けなかった。
だから、店内の写真とかはほとんどない。 インターネットで見つけることの出来るのは1枚だけ。
唯一の写真はここに。
こんなことがあった。
あるとき、観光客風の人が、店の戸を開けて、こう言った。
「ここは、札幌ラーメンですか」と。 おやじさんは、こう言った。
「ただの、ラーメンだ」って。 店にいた客は、黙っていなかった。
「絶対に美味しい。食べてみな」って言って、無理矢理誘い込んだ。
味の特徴について。
全く水っぽくなく、ほんのりと、焦げた味がした。 それも、ニンニクの。
野菜といっしょに、ニンニクも入れていた。
野菜を炒めて、鉄のフライパンが目一杯高温になったときに、スープを流し込んでいた。
そのことで、油は、一瞬にして、乳化していた。(このことは、後で知った)
乳化した油は、さらっとしており、口にべたつかない。
だから、富公のラーメンに、油のまくはない。 絶品は、醤油味。
この味は、どこの店にも真似の出来ないものだった。
富公に、少しでも近づくことの出来た店はなかった。
ここだけの味だった。
もし、もう一度食べることが出来るのなら、100倍の値段を払ってもいい。
そこまで思う味だった。
後で知ったが、平成4年に店を閉める。
菅原さんは、食道がんで亡くなった。
私は、札幌に行くたびに、店を見に行ったが、閉まったままだった。
ある時、出張で札幌に行った。 晩、富公があった近くの焼鳥屋に入った。
店はどうなったかを聞くために。
そこで、菅原さんが亡くなったことを知った。
今は、富公の店の建物で、一徹という店がやっている。
ドンブリなど、富公から譲り受けた。 富公の味を追っている。
食べに行ってきた。 少しだけ、似た味がした。 60点くらいか。
見た目からして、違った。 野菜の載せ方など、雑だった。
形だけなら、すぐ真似が出来るのに。 研究が足りないと思った。
他に西区で、紫雲亭という店が、富公の味を追っている。 まだ、食べたことはない。
この店には、富公の暖簾が保管されている。
どちらの店でもいいから、富公の味に、近づいてほしい。
ラーメンで、こんなに感動できるなんて、考えても見なかった。
今日は、ここまでにします。
何か、思い出したら、追記します。
ブログが、長くなりました。
今、思い出して書いておかなければと思い、自分のためにも書きました。
今日は、留辺蘂の叔父が亡くなったので、この後、北見での通夜に行きます。
それで、ブログを急ぎました。
私をはじめて車に乗せてくれたのが、この叔父さん。 4歳の時。
「今日の歌」は、歌でなく、アコースティックギター。昨晩の演奏家。
曲名は、「The Most Evolved」(YouTube) いいですよ。
コメント
富公ですか。。。
Re: 富公ですか。。。
何百回ですか。 うらやましいですね。
富公を越える店は、今もないと思っています。
もう一度食べたい。
もし、美味しいところがあったら、教えてくださいね。
富公がないから、今は旭川の蜂屋で我慢している感じでしょうか。
全て7以下になりますね
現在は山梨県方面でしょうか。
美味しい果物産地なので、今日のデザートは
決まりですね。
いろいろなラーメン屋を訪ねていますが、
富公を10とすると全て7以下になります。
旭川もいい味出していますね。
喜多方の阿部食堂がシンプルながら好きでした。
しかし親父さんが亡くなり、味は全く別物に
なりました。
何処も同じなのでしょうか。
淋しいものです。
Re: 全て7以下になりますね
最近、ラーメンは食べてないんですよ。
ラーメンは、まずかったら全部食べられない。
うどんやそばは、そういうことはないのに。
> 美味しい果物産地なので、今日のデザートは
> 決まりですね。
リンゴや柿やミカンが安いので、よく食べます。
デザートという上品な食べ方ではないですね。
> 喜多方の阿部食堂がシンプルながら好きでした。
> しかし親父さんが亡くなり、味は全く別物に
> なりました。
阿部食堂は、感動には遠い味でした。
ごてごてしてなかったので、食べやすかったですが。
美味しい店に出会ったら、ブログに詳しく書きますね。
昔の記事ですが
もう一つ違うブログにも辿り着き
コメを残してたのですが
写真がここにーーと貼られていた記事に母の事が書かれてて思わず笑ってしまいました。
まぁ、文子ではなく文恵、なんですがね(笑)
何気に知られてた話なんだなぁと何やら嬉しく思えて、また富公が食べたくなっちゃいました(´・ω・`)
良いお店に出会えたらいいですよね
それでは通りすがりでしたが失礼しましたっ。
Re: 昔の記事ですが
忘れられない味でしたね。
永遠の味
願っても・努力しても・永遠に 食べることが出来ない 札幌味噌ラーメン 焦げた大蒜とラードがお店に
香る・・・40cmを超える 火柱を操り 汗だくで
お客に出す・・・その一杯を求めて 飛行機で北海道に行っていたが・・・今は ただ思い起こすのに
精一杯・・・恐ろしい顔と ギラギラの目つきと濃い
髭とごま塩の髪の毛が 頭に巻いたタオルから見えて
いた。 菅原さん あの世でも やっぱ作っているのかな? ゆっくりしてください。
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本日富公の事を書いていたら、
たまたまこのブログを知りました。
うちのが何百回と通った店なので、何かの形で残そうと思ったら、
皆さん、いろいろな思いがあるんですね。