芭蕉は、最上川のどこからどこまで下ったのか。
何を見たのか。
「五月雨をあつめて早し最上川」が生まれた背景は、何なのか。
そんなことが、知りたいことでした。
芭蕉が船に乗った地点は、大石田と思っていたが違った。
本合海という、新庄の近くだった。 右の赤い丸の所。
下りたのは、清川だった。 左の赤い丸の所。
なぜ、そこにしたのか。
分かってる人もいると思うが、義経の乗ったコースだった。 方向は反対だが。
芭蕉は、義経、西行、西施など、人に興味を持っていたことが分かる。
今回の船下りは、戸沢藩船番所という所から乗った。 12㎞のコース。 黄色い印の間。
ここは昔、川舟荷物の出入りを監視する所だった。
最上川は、大きな川だった。 山形県の水の80㌫は、ここに集まるそうだ。
上流から河口まで、山形県内を流れる。
船の案内の人が、浮気をしない川だと言った。
芭蕉と楚良が乗った船には、他に二人の禅僧がいた。
今の最上川の水量は少なく、芭蕉が乗った時は、水面はこれより、3㍍以上高かったと言われてる。
川幅が狭くなると、深さは7~8㍍になる。
日本三大急流の一つだ。
芭蕉は、流れの速さを知っていたし、感じていた。
芭蕉は、船に乗る前の大石田で、五月雨をあつめてすゞし最上川、を作っていた。
この流れを見て、すゞしが、早しに、後に変わる。
義経は、この川を上った。
下の写真は、上流方向。
芭蕉は、義経が見た同じ風景を見るため、きっと振り返って見た。
途中、川の岸辺に店があり、そこに船は付けた。
船の客は、鮎の塩焼きや、甘酒・串・お酒などを一斉に買った。
案内人は、気をつかわないで金つかってくれ、って言っていた。
船の中は、景色どころでなく、宴会になった。
この人が案内人。 ガイド。
ここで働けるのも、芭蕉さんのおかげ、みんなのおかげと言った。
最上川舟歌だったか、そんなのを歌った。 歌い慣れているから、上手。
英語でも、中国語でも、韓国語でも、少しずつ歌った。
流れがゆっくりになったとき、ある客がこう言った。 川はどっちに流れてるんだ、って。
私は、こう言いたくなった。 今、川下りしてるんでないか、って。
酒を飲んでるから、しかたない。
客を降ろした船が、上ってきた。
昔は、大きな帆を張って、風の力で上った。 風がなかったら、待つことになった。
これも、義経が見た上流方向。 道はいつも右に。
左に家が見えるが、以前は、おじいちゃんが一人で住んでいたそう。
仙人堂が見えてきた。 義経も芭蕉もこれを見た。
別のコースで、ここに渡ることができる。(実は、昔、渡ったことがある)
昔、源義経に付き従った常陸坊海尊という人が、この地でみんなと別れ、山に篭り、修験道の学び、仙人になったと言われている。
水量は少なくても、流れは速い。
波が、船底を、ドーンと突き上げてくる。
下流になると、最上川は悠然とした流れになってきた。
見えてきたのは、白糸の滝。 高さは124mで日本で6位。
この滝も見ている。 歌は作っていない。
リバーポートという、船着き場。 ここで下りた。
芭蕉が下船した清川は、もう少し下流。
芭蕉の見た風景の全てではなかったが、景色のいい変化のあるところの、ほとんどは見ることが出来た。
ほぼ1時間の、船下りだった。
船着き場は、水が増えても大丈夫なように作られていた。
芭蕉が乗ったのは、もっと大きいと、船の船頭さんが言った。
これと同じなのが、船に乗った戸沢藩舟番所にもあった。
それは、「おしん」の撮影で使ったのを再現した物だった。(本物は古くなって壊れたそう)
おしんは、銀山温泉からこんな船で、酒田に奉公に行った。
バスで戻った。
お店のあったところが見えた。
まとめは、最後に。
雄勝に向かった。
どこも、稲刈りが始まっていた。
下の写真の様子を見て、車を止めた。 こういうのは初めて見る。
写真の撮影をお願いした。 快く了解してくれた。
向こうの機械に、お父さん。 車に乗ってるのが、息子さんかな。
実は、この写真が、最初に撮った写真。
初めは、もっと下がっていた。
私が写真を撮ろうとしたら、写しやすいように少し上げてくれた。
この機械で刈り、籾(もみ)を取った稲ワラは、切り刻んで畑に撒いていた。
息子さんが運転している。
広い畑だ。
場所だけど、はっきりメモしなかった。
まだ、新庄市を走っていたときかな。そうでなかったら、鮭川村。(申し訳ない)
稲が、並んで、後の方に行ってる。
こんな感じで刈る。 機械だから、速い。
この後、名刺を渡して分かれた。 気を付けてねって、声をかけてくれた。
また、いい人に出会った。
車で走っていると、庭月観音の標示が何回も出てくる。 (県道35号線を走っていた)
行ってみた。
お堂の中の観音様は、見られなかった。
ただ、石段の上り口に、下の石碑があった。
この石碑のいわれが書いてあった。
昔、こんなことがあって、さらに、そんなことがあった。
ここに埋められるところを・・・、の文です。
強烈なお話しですね。
トンネルを抜けたら、ふたたび、秋田です。
芭蕉は、1689年(元禄2年)の7月19日(新暦)に最上川を下った。
その3日前までの3日間、大石田というところにいた。
山形の夏は暑い。
最上川を見て、流れる水に、涼しさを感じた。
そうして、五月雨を あつめてすゞし 最上川 が生まれた。
ところが、最上川を船で下ったときは、恐ろしいほどの流れに、涼しさよりも、水の流れの速さ(早さ)を感じた。
それがあって、奥の細道に載せるときは、五月雨を あつめて早し 最上川 となった。
調べ尽くせてはいませんが、こんな感じでまとめてみました。
【道の駅】 おがち 春に来ています。
【明日の予定】 小町の、ゆかりの地を歩きます。
何を見たのか。
「五月雨をあつめて早し最上川」が生まれた背景は、何なのか。
そんなことが、知りたいことでした。
芭蕉が船に乗った地点は、大石田と思っていたが違った。
本合海という、新庄の近くだった。 右の赤い丸の所。
下りたのは、清川だった。 左の赤い丸の所。
なぜ、そこにしたのか。
分かってる人もいると思うが、義経の乗ったコースだった。 方向は反対だが。
芭蕉は、義経、西行、西施など、人に興味を持っていたことが分かる。

今回の船下りは、戸沢藩船番所という所から乗った。 12㎞のコース。 黄色い印の間。
ここは昔、川舟荷物の出入りを監視する所だった。

最上川は、大きな川だった。 山形県の水の80㌫は、ここに集まるそうだ。
上流から河口まで、山形県内を流れる。
船の案内の人が、浮気をしない川だと言った。

芭蕉と楚良が乗った船には、他に二人の禅僧がいた。
今の最上川の水量は少なく、芭蕉が乗った時は、水面はこれより、3㍍以上高かったと言われてる。
川幅が狭くなると、深さは7~8㍍になる。
日本三大急流の一つだ。
芭蕉は、流れの速さを知っていたし、感じていた。

芭蕉は、船に乗る前の大石田で、五月雨をあつめてすゞし最上川、を作っていた。
この流れを見て、すゞしが、早しに、後に変わる。
義経は、この川を上った。
下の写真は、上流方向。
芭蕉は、義経が見た同じ風景を見るため、きっと振り返って見た。

途中、川の岸辺に店があり、そこに船は付けた。

船の客は、鮎の塩焼きや、甘酒・串・お酒などを一斉に買った。
案内人は、気をつかわないで金つかってくれ、って言っていた。
船の中は、景色どころでなく、宴会になった。

この人が案内人。 ガイド。
ここで働けるのも、芭蕉さんのおかげ、みんなのおかげと言った。
最上川舟歌だったか、そんなのを歌った。 歌い慣れているから、上手。
英語でも、中国語でも、韓国語でも、少しずつ歌った。

流れがゆっくりになったとき、ある客がこう言った。 川はどっちに流れてるんだ、って。
私は、こう言いたくなった。 今、川下りしてるんでないか、って。
酒を飲んでるから、しかたない。
客を降ろした船が、上ってきた。
昔は、大きな帆を張って、風の力で上った。 風がなかったら、待つことになった。

これも、義経が見た上流方向。 道はいつも右に。
左に家が見えるが、以前は、おじいちゃんが一人で住んでいたそう。

仙人堂が見えてきた。 義経も芭蕉もこれを見た。

別のコースで、ここに渡ることができる。(実は、昔、渡ったことがある)
昔、源義経に付き従った常陸坊海尊という人が、この地でみんなと別れ、山に篭り、修験道の学び、仙人になったと言われている。

水量は少なくても、流れは速い。
波が、船底を、ドーンと突き上げてくる。

下流になると、最上川は悠然とした流れになってきた。
見えてきたのは、白糸の滝。 高さは124mで日本で6位。
この滝も見ている。 歌は作っていない。

リバーポートという、船着き場。 ここで下りた。
芭蕉が下船した清川は、もう少し下流。
芭蕉の見た風景の全てではなかったが、景色のいい変化のあるところの、ほとんどは見ることが出来た。
ほぼ1時間の、船下りだった。

船着き場は、水が増えても大丈夫なように作られていた。

芭蕉が乗ったのは、もっと大きいと、船の船頭さんが言った。
これと同じなのが、船に乗った戸沢藩舟番所にもあった。
それは、「おしん」の撮影で使ったのを再現した物だった。(本物は古くなって壊れたそう)
おしんは、銀山温泉からこんな船で、酒田に奉公に行った。

バスで戻った。

お店のあったところが見えた。

まとめは、最後に。
雄勝に向かった。
どこも、稲刈りが始まっていた。
下の写真の様子を見て、車を止めた。 こういうのは初めて見る。
写真の撮影をお願いした。 快く了解してくれた。
向こうの機械に、お父さん。 車に乗ってるのが、息子さんかな。

実は、この写真が、最初に撮った写真。
初めは、もっと下がっていた。
私が写真を撮ろうとしたら、写しやすいように少し上げてくれた。

この機械で刈り、籾(もみ)を取った稲ワラは、切り刻んで畑に撒いていた。
息子さんが運転している。

広い畑だ。
場所だけど、はっきりメモしなかった。
まだ、新庄市を走っていたときかな。そうでなかったら、鮭川村。(申し訳ない)

稲が、並んで、後の方に行ってる。

こんな感じで刈る。 機械だから、速い。

この後、名刺を渡して分かれた。 気を付けてねって、声をかけてくれた。
また、いい人に出会った。
車で走っていると、庭月観音の標示が何回も出てくる。 (県道35号線を走っていた)
行ってみた。
お堂の中の観音様は、見られなかった。
ただ、石段の上り口に、下の石碑があった。

この石碑のいわれが書いてあった。
昔、こんなことがあって、さらに、そんなことがあった。
ここに埋められるところを・・・、の文です。
強烈なお話しですね。

トンネルを抜けたら、ふたたび、秋田です。

芭蕉は、1689年(元禄2年)の7月19日(新暦)に最上川を下った。
その3日前までの3日間、大石田というところにいた。
山形の夏は暑い。
最上川を見て、流れる水に、涼しさを感じた。
そうして、五月雨を あつめてすゞし 最上川 が生まれた。
ところが、最上川を船で下ったときは、恐ろしいほどの流れに、涼しさよりも、水の流れの速さ(早さ)を感じた。
それがあって、奥の細道に載せるときは、五月雨を あつめて早し 最上川 となった。
調べ尽くせてはいませんが、こんな感じでまとめてみました。
【道の駅】 おがち 春に来ています。
【明日の予定】 小町の、ゆかりの地を歩きます。
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コメント
9月30日
Re: 9月30日
乗った船は、観光船でした。
だから船の中は、宴会ムード。
水は少ないといっても、他の川と比べて、そうは感じませんでした。
大河でした。
川がカーブするとき、驚くほど川幅が狭くなりました。
水量がもっと多かったら、船が飲み込まれる感じがするでしょうね。
五月雨を・・の俳句は、すらっと言えて、覚えやすいです。
あつめるとういうのが、いいのでしょうか。
だから船の中は、宴会ムード。
水は少ないといっても、他の川と比べて、そうは感じませんでした。
大河でした。
川がカーブするとき、驚くほど川幅が狭くなりました。
水量がもっと多かったら、船が飲み込まれる感じがするでしょうね。
五月雨を・・の俳句は、すらっと言えて、覚えやすいです。
あつめるとういうのが、いいのでしょうか。
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この辺りで芭蕉は、あの有名な句を作ったのでしょうかね? 「五月雨を あつめて早し 最上川」芭蕉
いい旅が続くようにーーー。また書きます。
2009.9.30 銀河宙太