小野小町は実在の人物だから、どこかで生まれている。
それはどこだということだが、伝説の残っている町のどこか。
そう考えていいと思う。
今日、明日と小町の伝説が多く残っている雄勝を歩くが、ここは昔、小野村。
(その後、他と合併して、雄勝町になり、さらに合併して、今は湯沢市に)
1日目の今日は、国道の西半分を歩いた。
国道沿いには、こんなのが見られる。

最初に行ったのは、向野寺(こうやじ)。
ここは小町の菩提寺と言われ、昔は別の場所にあって小野寺と呼ばれていた。
小町が自分で彫ったという木彫りの像が安置されている。
道の駅の案内所で聞くと、そこに人はいなく、管理は近くの院内にあるお寺がしていた。
電話番号を教えていただいた。
※ また、小町の詳しい資料もお借りすることができた。
院内のお寺に電話すると、開けてくれるという。
ありがたいと思った。
道の駅から10分ほど歩いたら着いた。
ここが向野寺。 入り口には、石碑と案内板があった。
若いお坊さんが、開けて待っていてくれた。

入った、本尊の右手に、小町像は安置されていた。
古い物だったが、昔は鮮やかな色をしていたことが分かる。
そばを歩いたとき、振動で首が少し動いた。
この後行く、岩屋堂で彫ったと言われている。
(専門家の鑑定を受けているのかを知りたいが、まだ分からない)

小野小町は平安時代の女流歌人。 1200年前の人だ。
有名な、この歌をつくった人。
花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに
※ この歌は晩年に作り、今に残ってる。 ということは、ここに来ても、中央とつながりがあったと考えていいのか。 この辺も分からない。
(何せ、伝説として残っているだけだから)
小町像の正面に、額に入った小町の絵があった。

近くに、熊野神社があった。 ここは、小町が願をかけによく訪れたという。

小町が晩年過ごしたという、岩屋堂に向かった。 30分程歩く。
向こうの白い橋を渡り、左の川沿いの道を少し歩いたら、山に入った。

こんな道を歩いた。 途中から細くなる。

石碑があった。 滴りや 小町籠もりし 岩屋堂 と書いてある。

キノコを採ってるおじいさんに会った。 もうすぐだと教えてくれた。
ここで、10分ほどおしゃべりした。

こんなおじいさん。 昔若い頃、札幌にいたと言った。
この後、偶然にまた会うことになる。

5分ほど歩いたら、見えてきた。 赤い丸の中。

岩に、大きな口があった。 そんな感じ。

思ってたより大きい。 貸していただいた資料には、広さ約20畳とあった。
人は、20人でも30人でも入れる。

中はこんな感じ。 奥に、像が二つ。 手前に花が。
※ ついでに、ヒカリゴケがないか探したがなかった。土は乾いていた。

横から見た。
私は資料をちゃんと読んでいなかったから気づかなかったが、天井に敷居・鴨居を取り付けたような跡があるそうだ。

像が二つ。

お花のところは、こんな感じ。
左の青い食器にお賽銭が入っていた。 私も少し入れた。

中から外を撮影。 小町が住んでいたとすれば、外はこんな風に見えた。

小町は本当にここで暮らせたのかなと、少し思った。
ここに籠もることもあった。そう言うことかも知れないと思った。(この町にいたとして)
山を下りたら、こんな風景。 もし住んでいたら、ここの人達と関わりがあったと思った。

野の花は少なくなったが、どこの家の庭にも花が咲いていた。

元来た道を戻った。 旧国道に出て歩いていた。 途中で曲がるのを忘れて、そのまま歩いていた。
さっきのおじいさんがキノコを洗っていた。
おじいちゃんの家はここだったのかい、とか言いながら、また話した。

おじいさんと別れて、小町堂に向かった。 歩いて3分ほど。
小町堂に着く頃、おじいさんが自転車で追いかけてきた。
いろいろ教えてくれた。
ここには、昔古い小町堂があった。
今は国道の方を向いているが、昔は、反対側の旧国道の方を向いていた。
そっちから撮ったのがこの写真。
※ 桜の木か、柳なのかは、確認していない。 (分かったら後で。琵琶湖の近くでこんな桜を見たが)

立派なお堂だ。 何を参考にしてこのデザインを考えたのか。
平等院の鳳凰堂のようだ。
ここで毎年、6月に小町まつりが開かれる。

お堂には花があった。 地域の人が輪番であげてるそうだ。

菅江真澄が、ここに来ていた。 (手這坂となまはげのブログに登場している)
これを読むと、ここの伝説は古くからのものだと分かる。

小町堂を見ていたら、雄勝中学校の女生徒達が、校外学習でやってきた。
女の子達から、あいさつをしてきた。
楽しそうに動き回って、案内板の説明とかを読んでいた。
4人のグループが、私に、向野寺はどこですかと聞いてきた。
持っていた案内の地図で場所を伝えた。
鍵がかかっているので、もし行くなら電話してあげるよ、と言った。
でも、時間がなかったからか、遠慮した。
そこまでしてもらわなくても、と考えたようでもあった。
子供達は、小町堂に来る前、自転車で岩屋堂にも行っていた。
少しの差で、会ってはいなかった。
子供達の会話は、ずっと聞こえていた。
その内容から、雑な考えをしていないことを感じた。
また、この授業を楽しんでいるようにも見えた。
別れるとき、何度も挨拶をしてくれた。 その後、別の場所で会ったときも。
家庭と学校がどうであれば、あんな子供達が育つんだろう。 そう思った。
私は教育に関わっていたから、すぐにこういう考えをする。
でも、これだと、子供達に少し失礼かなと思った。
自分で考え、自分の力で、今の自分に成長させた。
それを支えたのが、家庭と学校。
そう、考え直した。
4人とも、いい目つきをしてましたよ。
以前職場で、雄勝出身の人の教育実習を引き受けたことがあったのですが、目の感じに、共通のもの
を感じました。
それは、視線がはっきりしている、ということでしょうか。
今日は、すてきな中学生に出会いました。
おじいちゃんにも出会って、いい一日になりました。
これは、道の駅のそばにある、二つ森。
小町と、小町を追ってやってきた深草少将の墳墓と言われている。

明日は、東半分を歩きます。
まとめは、そこで書きます。
【道の駅】 おがち 同じです。 温泉は、院内にある、ほっと館。 春にも行った。
時間がないので、歌はなし。 1日に載せる歌は、決めてますよ。
それはどこだということだが、伝説の残っている町のどこか。
そう考えていいと思う。
今日、明日と小町の伝説が多く残っている雄勝を歩くが、ここは昔、小野村。
(その後、他と合併して、雄勝町になり、さらに合併して、今は湯沢市に)
1日目の今日は、国道の西半分を歩いた。
国道沿いには、こんなのが見られる。

最初に行ったのは、向野寺(こうやじ)。
ここは小町の菩提寺と言われ、昔は別の場所にあって小野寺と呼ばれていた。
小町が自分で彫ったという木彫りの像が安置されている。
道の駅の案内所で聞くと、そこに人はいなく、管理は近くの院内にあるお寺がしていた。
電話番号を教えていただいた。
※ また、小町の詳しい資料もお借りすることができた。
院内のお寺に電話すると、開けてくれるという。
ありがたいと思った。
道の駅から10分ほど歩いたら着いた。
ここが向野寺。 入り口には、石碑と案内板があった。
若いお坊さんが、開けて待っていてくれた。

入った、本尊の右手に、小町像は安置されていた。
古い物だったが、昔は鮮やかな色をしていたことが分かる。
そばを歩いたとき、振動で首が少し動いた。
この後行く、岩屋堂で彫ったと言われている。
(専門家の鑑定を受けているのかを知りたいが、まだ分からない)

小野小町は平安時代の女流歌人。 1200年前の人だ。
有名な、この歌をつくった人。
花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに
※ この歌は晩年に作り、今に残ってる。 ということは、ここに来ても、中央とつながりがあったと考えていいのか。 この辺も分からない。
(何せ、伝説として残っているだけだから)
小町像の正面に、額に入った小町の絵があった。

近くに、熊野神社があった。 ここは、小町が願をかけによく訪れたという。

小町が晩年過ごしたという、岩屋堂に向かった。 30分程歩く。
向こうの白い橋を渡り、左の川沿いの道を少し歩いたら、山に入った。

こんな道を歩いた。 途中から細くなる。

石碑があった。 滴りや 小町籠もりし 岩屋堂 と書いてある。

キノコを採ってるおじいさんに会った。 もうすぐだと教えてくれた。
ここで、10分ほどおしゃべりした。

こんなおじいさん。 昔若い頃、札幌にいたと言った。
この後、偶然にまた会うことになる。

5分ほど歩いたら、見えてきた。 赤い丸の中。

岩に、大きな口があった。 そんな感じ。

思ってたより大きい。 貸していただいた資料には、広さ約20畳とあった。
人は、20人でも30人でも入れる。

中はこんな感じ。 奥に、像が二つ。 手前に花が。
※ ついでに、ヒカリゴケがないか探したがなかった。土は乾いていた。

横から見た。
私は資料をちゃんと読んでいなかったから気づかなかったが、天井に敷居・鴨居を取り付けたような跡があるそうだ。

像が二つ。

お花のところは、こんな感じ。
左の青い食器にお賽銭が入っていた。 私も少し入れた。

中から外を撮影。 小町が住んでいたとすれば、外はこんな風に見えた。

小町は本当にここで暮らせたのかなと、少し思った。
ここに籠もることもあった。そう言うことかも知れないと思った。(この町にいたとして)
山を下りたら、こんな風景。 もし住んでいたら、ここの人達と関わりがあったと思った。

野の花は少なくなったが、どこの家の庭にも花が咲いていた。

元来た道を戻った。 旧国道に出て歩いていた。 途中で曲がるのを忘れて、そのまま歩いていた。
さっきのおじいさんがキノコを洗っていた。
おじいちゃんの家はここだったのかい、とか言いながら、また話した。

おじいさんと別れて、小町堂に向かった。 歩いて3分ほど。
小町堂に着く頃、おじいさんが自転車で追いかけてきた。
いろいろ教えてくれた。
ここには、昔古い小町堂があった。
今は国道の方を向いているが、昔は、反対側の旧国道の方を向いていた。
そっちから撮ったのがこの写真。
※ 桜の木か、柳なのかは、確認していない。 (分かったら後で。琵琶湖の近くでこんな桜を見たが)

立派なお堂だ。 何を参考にしてこのデザインを考えたのか。
平等院の鳳凰堂のようだ。
ここで毎年、6月に小町まつりが開かれる。

お堂には花があった。 地域の人が輪番であげてるそうだ。

菅江真澄が、ここに来ていた。 (手這坂となまはげのブログに登場している)
これを読むと、ここの伝説は古くからのものだと分かる。

小町堂を見ていたら、雄勝中学校の女生徒達が、校外学習でやってきた。
女の子達から、あいさつをしてきた。
楽しそうに動き回って、案内板の説明とかを読んでいた。
4人のグループが、私に、向野寺はどこですかと聞いてきた。
持っていた案内の地図で場所を伝えた。
鍵がかかっているので、もし行くなら電話してあげるよ、と言った。
でも、時間がなかったからか、遠慮した。
そこまでしてもらわなくても、と考えたようでもあった。
子供達は、小町堂に来る前、自転車で岩屋堂にも行っていた。
少しの差で、会ってはいなかった。
子供達の会話は、ずっと聞こえていた。
その内容から、雑な考えをしていないことを感じた。
また、この授業を楽しんでいるようにも見えた。
別れるとき、何度も挨拶をしてくれた。 その後、別の場所で会ったときも。
家庭と学校がどうであれば、あんな子供達が育つんだろう。 そう思った。
私は教育に関わっていたから、すぐにこういう考えをする。
でも、これだと、子供達に少し失礼かなと思った。
自分で考え、自分の力で、今の自分に成長させた。
それを支えたのが、家庭と学校。
そう、考え直した。
4人とも、いい目つきをしてましたよ。
以前職場で、雄勝出身の人の教育実習を引き受けたことがあったのですが、目の感じに、共通のもの
を感じました。
それは、視線がはっきりしている、ということでしょうか。
今日は、すてきな中学生に出会いました。
おじいちゃんにも出会って、いい一日になりました。
これは、道の駅のそばにある、二つ森。
小町と、小町を追ってやってきた深草少将の墳墓と言われている。

明日は、東半分を歩きます。
まとめは、そこで書きます。
【道の駅】 おがち 同じです。 温泉は、院内にある、ほっと館。 春にも行った。
時間がないので、歌はなし。 1日に載せる歌は、決めてますよ。
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コメント
Re: タイトルなし
浅い知識で、好きなことを書いているんですよ。
深くは書けないから、何にでも首を突っ込む。
そんな感じです。
花巻で賢治の何かを探してみます。
夏に行った他に。
深くは書けないから、何にでも首を突っ込む。
そんな感じです。
花巻で賢治の何かを探してみます。
夏に行った他に。
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芭蕉は、義経がたどった道を歩いたのですね。これは初めて知ることでした。もう一度、真剣に「奥の細道」を
読んでみたいと思いました。「奥の細道」は本当に奥が深いですね。
「象潟」(きさがた)の名前や、そこが名勝地だったことも全く知りませんでした。いいところであるようですね。遠野に行かれるようですが、手前の花巻に寄る予定はありませんか? 宮沢賢治ゆかりの地ー花巻を、akkamui21さんのカメラで見、akkamui21さんが感じたままの文章を読んでみたいです。
いい旅を続けてください。
このブログに出会い、「夢」や「生きがい」について
再認識しました。また書きます。
2009,10.1 銀河宙太