小野小町は、いったいどこで生まれたのか。
客観的に書かれている物で、雄勝が優位としているものはあるのか。
識者と言われる人達は、どう考えているのか。
また、雄勝に残る伝説は、他にある伝説と似ている。
深草少将が小町を慕ったというのは、ここだけの伝説ではない。
どうして似たのか。
そんな辺りを、最後にまとめてみたいと思います。
今日は、下の地図の国道の上(東)を歩いた。
こっちの方です。 10㎞ほど歩くことになりそうだ。
今日歩いた所は、十分に整備されていなかった。
それで、写真は小さめ。
湯沢市になってから、不景気もあって予算は付きにくくなった。(雄勝だけのものだから、お金は出しづらい)
小町が、産湯をつかったとされる井戸。 平安初期の物と分かっている。
※ 説明は簡単に。 詳しく知りたい方は、下を読んでください。
深さが分からないので、子石を投げてみた。 少し下で、ポトって音がした。
真っ暗で、見えない。
写真には、写った。 深さ、2~3㍍か。 5角形。
芍薬園。 深草少将が、毎日1本ずつ、100本植えようとしたのが芍薬。
向こうの山から、こっちに通った。 100本目で、川に流された。
この辺りに、ずっと昔、桐木田城があった。
小町は、ここで生まれたという。 母親の墓が上の井戸の近くに。
場所はここ。 (写真がおかしい)
字は、読めなかった。(井戸の中を写した時の設定で、撮ったようだ)
もし伝説が本当でなかったら、これは誰の墓なんだろう。分からないから、小町の母にしたのか。
御返事(おっぺじ)に向かった。
こんなのがあったので、何しているか聞いた。燻炭(くんたん)を作っていた。
表面を触ったら熱かった。 イモを入れたら、焼き芋ができるそう。
籾殻の炭。 肥料にする。
御返事という地域。
深草少将が、ここで小町に出した恋文の返事を待っていた。
ここからは、ここに住んでいたおばあさんに頼んで、持って行ってもらった。
ひらじょう、とよむ。 昔、そこの平地に城があった。
サギがいた。 いい姿だった。
いい目つきをしている。(いつか、もっと近くから、画素数を大きくして撮ってみます。そうしたら、拡大
しても目玉がはっきりします)
小町の父の菩提寺。 。
深草少将がいた長鮮寺は、この寺の右奥の沢にあった
このあと、写真の正面奥に向かった。
一番奥の家に聞いた。 家のすぐ上だった。
このように、平らになっているだけだった。(広く写真を撮ればよかった)
このクモ、色がいい。
小町がここにある泉で顔を洗った。 疱瘡を治すため。
井戸の標示はなかった。 手前の石碑の向こうに、コンクリートのフタがあった。それか。
二十三夜塔を、久しぶりに見た。
国道に出て、しばらく歩いた。 ここから道の駅まで、まだ2㎞ある。
奥羽本線。 線路は真っ直ぐだった。
もう終わったが、小町まつりのポスター。
この写真の子の、頬(ほほ)から顎(あご)にかけてのラインが、秋田美人の典型でしょうか。
きっと、モデルでしょうね。
昨日、今日と、伝説を紹介してきた。
予算が無いためと思うが、十分に整備されてはいなかった。
どこで生まれたかについて、考えてみたいと思う。
まず、雄勝が優位と考えられる物はあるのか。 探してみた。
※ いろんな人の、小町に関するホームページで探した。 リンクフリーのから、資料だけもらった。
それを、整理した。
平凡社の世界大百科事典には、こう書いてある。(関係部分だけ)
9世紀中ごろ(平安前期)の歌人。生没年は不明。文屋康秀、僧正遍昭、在原業平、安倍清行、小
野貞樹らと歌を贈答している。出羽の国の郡司小野良真の子で姉がひとりある。采女であったという
が、たしかではない。
『古今集』に18首の歌が見え、家集『小野小町集』もある。~~~ 作品を実際鑑賞してみると、しっ
とりとした趣はなくて、むしろ、奔放であり、情熱的であり、弱いというところはない。美人であったと
言われ、全国各地に数々の小町伝説が伝えられている。(西下経一)
※ 上の文で、采女(うねめ)とは、天皇や皇后の世話をする人。
雄勝は、出羽の国だ。 上の文では、言い切った表現をしている。
ところが、WikiPediaでは、これを否定している。
系図集『尊卑分脈』によれば出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く
見当たらない)の娘とされている。しかし小野篁の孫とするならば彼の生没年を考えると上記の年
代が合わない。よって詳しい系譜は不明である。
上の二つは、小町の出身は、雄勝かどうかのことを言っている。
WikiPediaに書いてあることだって、昔のことだから、はっきりしたものではない。
雄勝かどうかを論じると言うことは、雄勝は他の伝説が残る地域より、可能性が高いということになる。
次に、識者はどう考えているのか。
NHK「歴史発見」小野小町伝説より
(これは平成4年に放送された。 井沢元彦と里中満智子が司会進行役で、山村美紗が解説)
※ 里中満智子は、いつだか、ブログに書いた人ですよ。
山村美紗は、こう言っています。
小野小町は仁明天皇の更衣で、小野市の出身の小野吉子であろう。
小野吉子は『続日本後記』に承和9年(842年)正月8日、正六位上に任じられたと記されている女
性で、正六以上は更衣に相当する位だそうだ。
これについては、根拠を知りたいかな。
また、鎌倉時代の終わり頃、徒然草を書いた兼好法師は、その中でこう言っている。
第173段
小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは、玉造と云う文にみえたり。この文、清行が
書けりという説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給えり。
小町がさかりなる事、その後の事にや、なお覚束なし。
※ 高野大師は、弘法大師のこと。
最初と最後で、はっきりしないと言っている。
小町の時代から、500年ほど経っているから、分からなくなっているようだ。
最後に、各地の伝説がなぜ似ているか、について。
平凡社の世界大百科事典には、下のように書いてあった。
中世以来、信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群があって、その人々がこういう伝説を運搬し歩い
たものと考えられる。たまたま小野とよばれる土地があり、由来ありげな古塚があり、清い水のかれ
ることのない井があったりすると、伝説はそこに土着し根をおろして、小町の墓、化粧の井というふう
に後代に伝えられたのであろう。
元になる伝説は、どこにあるかと言うことだが、有力なのは、京都の山科の小野にある随心院のように思う。
小町が住んでいたとされる寺だ。
まとめになりますが、伝説の残る地域の中では、雄勝は優位かも知れない。
伝説が似ている部分が、気になりますが。
※小町の伝説は、能の世界に原型があるようなんですね。
優位をはっきりさせることは難しいが、完璧に否定されることも、簡単にはない。
そう言うことでしょうか。
雄勝(湯沢)が、小町の伝説をだいじにするなら、伝説の場所もだいじにして欲しい。
そう思いました。 関連ブログ 小野小町はどんな顔? 小野小町と秋田美人 小野小町~美しさをどのように
(※ 道の駅おがちの案内所にはお世話になりました)
小野小町についは、これで一段落です。
最後に小町の歌を。
『思いつつ寝(ぬ)ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを』(古今集等)
【道の駅】 おがち 昨日に同じ。 温泉も同じ。
【明日の予定】 遠野に行きます。 時間は少ないが、どこかで何かを見ます。
《今日の歌》 手紙(You Tube) 雄勝中の、4人の子とみんなにプレゼント。
栄光の架橋(You Tube) これも。
ほうき星(You Tube) これも。
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何を 調べますか な 楽しみ❤