道の駅の裏手の山に、満光寺という小さな寺があった。
昨日、山門まで行ってきた。
この寺の説明板があり、面白いことが書いてあった。
ニワトリが家康を助けたという。
また、他の魅力として、庭が美しいようだ。
今日、午後から行ってきた。
道の駅からは、このように見える。
山門が見える。 古いものだ。
この寺の説明がある。
その中に、伝説として残っている、家康のことが書いてある。
家康は、1573年の三方ヶ原の戦いで信玄に負けた。
岡崎城に逃げ帰るとき、ここを通ったそうだ。
※家康は、一旦浜松城に逃げるが、その後と考えていいのか。
この場所は、岡崎城までの途中にあたる。
家康は、この時まだ若く、30才だ。
夕方やってきて、この寺に泊る。
詳しくは下に書いてあるが、ニワトリの泣き声で、危機一髪助かることになる。
家康は、ここでの恩を忘れることはなかった。
後に、寺領三石(さんごく)を、この寺に与えることになる。 ※ 家光の時代に、更に20石。
ここの道の駅の名前は、鳳来三河三石だ。 意味が分かった。
このことについては、後ほどまた。
こちらは読みやすい。
山門の向こうに、本堂が見える。
1782年(天明2年)に、火災があり、この山門だけが焼け残る。
山門のそばに、お地蔵さんがならんでいた。
口の表情に特徴がある。
微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
左に、元禄十三と読める。 西暦1700年だ。 山門より7年早く作られた。
山門といっしょに、1782年の火災を見ている。
今でこうです。 紅葉のときはどうなるんでしょう。 見たいですね。
本堂は、火災の2年後の、1784年に再建されている。 200年を過ぎた。
庭園は、建物の山側にあった。
玄関で挨拶した。 奥様が庭園に案内してくれた。 賽銭箱のようなのがあり、志を入れた。
ここの庭園については、ネットで調べてあった。
愛知県指定文化財になっており、一般に知られているものだった。
この写真は、正面を広く撮ったもの。 ※ こういうときに使うレンズがある。 それがあれば、全体を写せる。
奥様がテープを聞かせてくれた。 13分ほどの長さ。
先代の住職さんが庭の説明をしている。
右の下の方。 人間がつくった、自然の美という感じでしょうか。
この庭は、山門と同じ年に作られていた。 宝永4年(1707年)
これは、左下。
小堀遠州流の庭だそうだ。 庭全体の岩で、ここに元々あったのは、3つだけだそう。
中央下の部分。 池の形は、心の字の形だそう。
石、岩、木、池の配置など、仏教的な意味を持っており、どれにも名前があった。
これは、上の方の右半分。
庭園が、ある考えに基づいて作られていることを、初めて知った。
テープの説明は分かりやすかった。 中央右の大きな木は、などど説明するので、説明の場所も分かった。
テープの声の先代の住職さんは、1回だけ、あっちに見えるのは、と言った。
私は、どっちを見ればいいのか分からなかった。
庭を見ながら、このテープに声を録音していると思った。
こういうのを発見するのが、私は好きですね。
一人で、思わず微笑んでしまった。
これは、上の方、左半分。
庭園を見終わった時、奥様が来た。
家康は、どっちから来て、どの方向に行ったかを聞いた。 伝説の中身だ。
7~8人の家来と共に、庭園の写真では、右の方から来て、西の岡崎の方に行ったという。
下の地図では、三方ヶ原や浜松城は、地図の右下。 黄色は、この寺の場所。 赤が岡崎城。
その道は、庭園の上の山の尾根伝いにあった。 ※ この地図に、点線で道が見える。 昔の道と同じと思う。
家康は寝るとき、朝ニワトリが鳴いたら起こしてほしいと頼んだ。
ところが、真夜中にニワトリは鳴いた。 その日に限って真夜中だった。
起こしてもらい出発する。 武田軍は、その後すぐに来る。
伝説は、ニワトリに助けられたとなった。
部屋の奥からは、庭はこのように。
三方ヶ原の戦いは、家康の大惨敗であり、人生最大のピンチだった。
大正時代の作品。
「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや 鶏(にわとり)に」と、書いてある。
この部屋は、隠れ部屋のような、2階の部屋。
昔、天狗党の乱があった。 天狗党の乱(Wikipedia)
それに関わった家の御姫様が、幕府に追われる。 その途中、この部屋にかくまわれる。
最後はつかまって、殺されたという。(史実として、確かなよう)
写真は、自由に撮らせていただくことができた。
本堂の中。
平安中期の作という。 ただ、素人が塗りなおしたため、文化財としての価値は下がったそうだ。
こんな表情。
たくさん仏像があった。
これは、室町時代だそう。
こんなのも。
円空が彫ったのに似ている。
詳しい説明は、お願いしなかった。
これは、本尊。 十一面観世音菩薩。
家康を助けたのと、同じ種類。
奥様に、ブログには書ききれないほど、説明をしていただきました。
家康の伝説は、この満光寺だけでなく、地域のものとして語り継がれていました。
もし、家康がここに寄っていたら、長い年月の間に、今の形になったと思われます。
伝説は、各地にあります。 その中のどれかは、本当の可能性があります。
ここに伝わる伝説は、中身がいいですね。
困っている人間を助けた。 その恩に、助けられた人間は報いた。
このような伝説が方々にあるが、このことについては、調べる時間はありませんでした。
※ 参考になるのは、小町伝説です。 それは、ここに。
満光寺の奥様に、みかんや野菜、そして、さつま芋をいっぱいいただきました。
あまいみかんでした。 さつまいもも。
それを、いただきながら、ブログを書きました。
【道の駅】 昨日と同じ。
【明日の予定】 天気が回復したら、鳳来寺に。
【今日の歌】 銀座の雀(YouTube) 森繁久弥です。
【ブログランキング】 国内旅行8位、旅行全体で18位です。 クリック、お願いしますね。
昨日、山門まで行ってきた。
この寺の説明板があり、面白いことが書いてあった。
ニワトリが家康を助けたという。
また、他の魅力として、庭が美しいようだ。
今日、午後から行ってきた。
道の駅からは、このように見える。

山門が見える。 古いものだ。

この寺の説明がある。
その中に、伝説として残っている、家康のことが書いてある。
家康は、1573年の三方ヶ原の戦いで信玄に負けた。
岡崎城に逃げ帰るとき、ここを通ったそうだ。
※家康は、一旦浜松城に逃げるが、その後と考えていいのか。
この場所は、岡崎城までの途中にあたる。
家康は、この時まだ若く、30才だ。
夕方やってきて、この寺に泊る。
詳しくは下に書いてあるが、ニワトリの泣き声で、危機一髪助かることになる。
家康は、ここでの恩を忘れることはなかった。
後に、寺領三石(さんごく)を、この寺に与えることになる。 ※ 家光の時代に、更に20石。
ここの道の駅の名前は、鳳来三河三石だ。 意味が分かった。
このことについては、後ほどまた。

こちらは読みやすい。

山門の向こうに、本堂が見える。

1782年(天明2年)に、火災があり、この山門だけが焼け残る。

山門のそばに、お地蔵さんがならんでいた。

口の表情に特徴がある。

微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
左に、元禄十三と読める。 西暦1700年だ。 山門より7年早く作られた。
山門といっしょに、1782年の火災を見ている。

今でこうです。 紅葉のときはどうなるんでしょう。 見たいですね。

本堂は、火災の2年後の、1784年に再建されている。 200年を過ぎた。
庭園は、建物の山側にあった。
玄関で挨拶した。 奥様が庭園に案内してくれた。 賽銭箱のようなのがあり、志を入れた。

ここの庭園については、ネットで調べてあった。
愛知県指定文化財になっており、一般に知られているものだった。
この写真は、正面を広く撮ったもの。 ※ こういうときに使うレンズがある。 それがあれば、全体を写せる。

奥様がテープを聞かせてくれた。 13分ほどの長さ。
先代の住職さんが庭の説明をしている。
右の下の方。 人間がつくった、自然の美という感じでしょうか。

この庭は、山門と同じ年に作られていた。 宝永4年(1707年)
これは、左下。

小堀遠州流の庭だそうだ。 庭全体の岩で、ここに元々あったのは、3つだけだそう。
中央下の部分。 池の形は、心の字の形だそう。

石、岩、木、池の配置など、仏教的な意味を持っており、どれにも名前があった。
これは、上の方の右半分。

庭園が、ある考えに基づいて作られていることを、初めて知った。
テープの説明は分かりやすかった。 中央右の大きな木は、などど説明するので、説明の場所も分かった。
テープの声の先代の住職さんは、1回だけ、あっちに見えるのは、と言った。
私は、どっちを見ればいいのか分からなかった。
庭を見ながら、このテープに声を録音していると思った。
こういうのを発見するのが、私は好きですね。
一人で、思わず微笑んでしまった。
これは、上の方、左半分。

庭園を見終わった時、奥様が来た。
家康は、どっちから来て、どの方向に行ったかを聞いた。 伝説の中身だ。
7~8人の家来と共に、庭園の写真では、右の方から来て、西の岡崎の方に行ったという。
下の地図では、三方ヶ原や浜松城は、地図の右下。 黄色は、この寺の場所。 赤が岡崎城。
その道は、庭園の上の山の尾根伝いにあった。 ※ この地図に、点線で道が見える。 昔の道と同じと思う。

家康は寝るとき、朝ニワトリが鳴いたら起こしてほしいと頼んだ。
ところが、真夜中にニワトリは鳴いた。 その日に限って真夜中だった。
起こしてもらい出発する。 武田軍は、その後すぐに来る。
伝説は、ニワトリに助けられたとなった。
部屋の奥からは、庭はこのように。

三方ヶ原の戦いは、家康の大惨敗であり、人生最大のピンチだった。

大正時代の作品。
「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや 鶏(にわとり)に」と、書いてある。

この部屋は、隠れ部屋のような、2階の部屋。
昔、天狗党の乱があった。 天狗党の乱(Wikipedia)
それに関わった家の御姫様が、幕府に追われる。 その途中、この部屋にかくまわれる。
最後はつかまって、殺されたという。(史実として、確かなよう)

写真は、自由に撮らせていただくことができた。
本堂の中。

平安中期の作という。 ただ、素人が塗りなおしたため、文化財としての価値は下がったそうだ。

こんな表情。

たくさん仏像があった。

これは、室町時代だそう。

こんなのも。

円空が彫ったのに似ている。

詳しい説明は、お願いしなかった。

これは、本尊。 十一面観世音菩薩。

家康を助けたのと、同じ種類。

奥様に、ブログには書ききれないほど、説明をしていただきました。
家康の伝説は、この満光寺だけでなく、地域のものとして語り継がれていました。
もし、家康がここに寄っていたら、長い年月の間に、今の形になったと思われます。
伝説は、各地にあります。 その中のどれかは、本当の可能性があります。
ここに伝わる伝説は、中身がいいですね。
困っている人間を助けた。 その恩に、助けられた人間は報いた。
このような伝説が方々にあるが、このことについては、調べる時間はありませんでした。
※ 参考になるのは、小町伝説です。 それは、ここに。
満光寺の奥様に、みかんや野菜、そして、さつま芋をいっぱいいただきました。
あまいみかんでした。 さつまいもも。
それを、いただきながら、ブログを書きました。
【道の駅】 昨日と同じ。
【明日の予定】 天気が回復したら、鳳来寺に。
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近くにぶどう狩りのできるところがあった記憶があります
数日前にこのお寺のことを、にわとりの寺があるんだよ~と薄ら残っている記憶を思い出して説明しました。
今度行ってみよう!となり日曜日に行く予定です