坂本龍馬とおりょうは、下の港にやってきた。 浜之市港。 (隼人港)
鹿児島から船で来た。 案内人は、吉井友実という人。
1866年4月30日、天気は晴れ。
案内板があった。
大きくなります。
桜島が見える。 鹿児島は右の方。
船は、向こうから入ってきて、右奥に。
黄色の○が、上陸地点。
1日目は、日当山温泉まで。 距離は6~7㌔。
今日私は、途中の隼人塚まで歩いた。
天気が良く、上着はリュックにしまった。
こんな花が。
少し歩いたら、浜の湯。 私はいつもここ。 300円。 焼き芋屋のHさんが教えてくれた。
新しい温泉なので、龍馬は知らない。
道は、ずっと山に向かっている。
Hさんの奥様が教えてくれた。 目立たない場所にあるのに、客は30人ほどいた。
こんなラーメン。
職人の感じの人が、淡々と作っていた。
プライドを表に出しているところは、まだ経験が浅いため、基本的にまずい。
そういう面で、ここはいい。
スープが熱くないという問題はあるが、スープを飲み干したくなるようなラーメン。
道は、時折ゆるく曲がるが、まっすぐ日当山温泉に向かっている。 案内板が。
私が歩くのは、隼人塚まで。
この道は、かごしまロマン街道だ。
龍馬とおりょうは、何を見て歩いたんでしょう。
当時は、見晴らしが良かったから、自分たちが登る高千穂の山が、きれいに見えたでしょうね。
ここから、宿泊する日当山温泉まで、2時間ほど。
朝、鹿児島を出て来ているから、ここを歩いているのは、午後の2時か3時でしょうか。
この写真の目的は何でしょう。 ヒントは空。
そうです。 飛行機です。 鹿児島空港が、すぐそば。 着陸の態勢に入っています。
隼人塚に着いた。
これが、隼人塚。
向こうに、隼人塚史跡館が。
与謝野晶子が、ここに来ていた。
奈良時代前、この辺りには、隼人という部族が住んでいた。
ここは、中央から遠いので、律令政治による税を集める仕組みは、徹底していなかった。
自分たちの決まりの中で、それなりに平和に暮らしていた。
奈良時代に入っても、支配への抵抗は強かった。 713年には、国守を殺す事件を起こした。
そして、720年に隼人の乱が起きた。 朝廷に逆らって戦った。
律令政府は、大伴旅人を大将軍として軍を派遣し、翌年までかかって鎮圧した。
※ 同じころ、坂上田村麻呂は鎮圧のため、東北に行っている。
首を切られたり、生け捕りにされたのは、1400人以上という。
後の世の人達が、死んだ隼人を弔って、隼人塚をつくった。 平安時代後期。
古い書物にも出てくる。 放生会というのは、隼人の霊を弔うための組織、そんな感じか。
隼人が使っていた、楯。 高さ、150㌢。 大きい。
再度。 これが、隼人塚。
後の世に、隼人塚がこうして作られたこと。
町名が、隼人になったこと。
義経や天草四郎と同じで、権力に従順でなく、強いものに立ち向かった人は、人々に好かれる。
ずっと語り継がれる。
隼人族は、戦うための能力が、体力面でも優れていたと考えられている。
隼人の「隼」は、隼(ハヤブサ)ですからね。
※ 隼人塚は、復元されたものですが、本物を含んだ復元です。
隼人塚の発掘・復元によって、隼人に関わる、多くのことが分かったようです。
龍馬とおりょうの歩いた道を、戻った。
桜島は、今日も、噴煙を上げていた。
今、AZにいますが、ここの店は、AからZまで、何でも売ってる。 24時間。
これから九州を動き回るため、再度、体制を整えています。
車の中を、更に使いやすいようにしています。
夜も、店で物を探したりして、ブログを書く時間がなくなり、次の日に持ち越しました。
大きなものの洗濯も、終わらせます。
【停泊場所】 AZの駐車場。
【明日の予定】 今日歩いた先を歩く。
【ブログランキング】 6位です。
【拍手】
鹿児島から船で来た。 案内人は、吉井友実という人。
1866年4月30日、天気は晴れ。
案内板があった。

大きくなります。

桜島が見える。 鹿児島は右の方。
船は、向こうから入ってきて、右奥に。

黄色の○が、上陸地点。

1日目は、日当山温泉まで。 距離は6~7㌔。
今日私は、途中の隼人塚まで歩いた。
天気が良く、上着はリュックにしまった。

こんな花が。

少し歩いたら、浜の湯。 私はいつもここ。 300円。 焼き芋屋のHさんが教えてくれた。
新しい温泉なので、龍馬は知らない。

道は、ずっと山に向かっている。

Hさんの奥様が教えてくれた。 目立たない場所にあるのに、客は30人ほどいた。

こんなラーメン。

職人の感じの人が、淡々と作っていた。
プライドを表に出しているところは、まだ経験が浅いため、基本的にまずい。
そういう面で、ここはいい。
スープが熱くないという問題はあるが、スープを飲み干したくなるようなラーメン。
道は、時折ゆるく曲がるが、まっすぐ日当山温泉に向かっている。 案内板が。

私が歩くのは、隼人塚まで。

この道は、かごしまロマン街道だ。
龍馬とおりょうは、何を見て歩いたんでしょう。
当時は、見晴らしが良かったから、自分たちが登る高千穂の山が、きれいに見えたでしょうね。
ここから、宿泊する日当山温泉まで、2時間ほど。
朝、鹿児島を出て来ているから、ここを歩いているのは、午後の2時か3時でしょうか。

この写真の目的は何でしょう。 ヒントは空。
そうです。 飛行機です。 鹿児島空港が、すぐそば。 着陸の態勢に入っています。

隼人塚に着いた。


これが、隼人塚。

向こうに、隼人塚史跡館が。

与謝野晶子が、ここに来ていた。

奈良時代前、この辺りには、隼人という部族が住んでいた。
ここは、中央から遠いので、律令政治による税を集める仕組みは、徹底していなかった。
自分たちの決まりの中で、それなりに平和に暮らしていた。

奈良時代に入っても、支配への抵抗は強かった。 713年には、国守を殺す事件を起こした。
そして、720年に隼人の乱が起きた。 朝廷に逆らって戦った。
律令政府は、大伴旅人を大将軍として軍を派遣し、翌年までかかって鎮圧した。
※ 同じころ、坂上田村麻呂は鎮圧のため、東北に行っている。

首を切られたり、生け捕りにされたのは、1400人以上という。

後の世の人達が、死んだ隼人を弔って、隼人塚をつくった。 平安時代後期。

古い書物にも出てくる。 放生会というのは、隼人の霊を弔うための組織、そんな感じか。

隼人が使っていた、楯。 高さ、150㌢。 大きい。

再度。 これが、隼人塚。

後の世に、隼人塚がこうして作られたこと。
町名が、隼人になったこと。
義経や天草四郎と同じで、権力に従順でなく、強いものに立ち向かった人は、人々に好かれる。
ずっと語り継がれる。
隼人族は、戦うための能力が、体力面でも優れていたと考えられている。
隼人の「隼」は、隼(ハヤブサ)ですからね。
※ 隼人塚は、復元されたものですが、本物を含んだ復元です。
隼人塚の発掘・復元によって、隼人に関わる、多くのことが分かったようです。
龍馬とおりょうの歩いた道を、戻った。
桜島は、今日も、噴煙を上げていた。

今、AZにいますが、ここの店は、AからZまで、何でも売ってる。 24時間。
これから九州を動き回るため、再度、体制を整えています。
車の中を、更に使いやすいようにしています。
夜も、店で物を探したりして、ブログを書く時間がなくなり、次の日に持ち越しました。
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と申します。
私が運営しております、鹿児島の観光と温泉をホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「隼人塚訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAQ.HTM
から、貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。
今後共、よろしくお願い申し上げます。