人吉市の隣、錦町を散策しました。
見た所は、4か所です。
どれも、錦町の観光ガイドMAPに載っていたものです。
錦町は、剣豪とフルーツの里だという。
剣豪は、丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)で、フルーツは、梨だった。
丸目という名前は、初めて聞いた。 この地方では、有名なようだ。
調べてみたら、剣の世界では、それなりの人だった。
「くらんどのすけ」は「くらんど」とも呼んでいた。
下の写真は、道の駅 錦。
右の建物はお店で、くらんど市。
後ろに公園があって、名前は、くらんど公園。
小さな町だが、剣道がさかん。
この人が、丸目蔵人佐。 タイ捨流(たいしゃりゅう)を生み出した。 構えが独特。
この人は、晩年、この地で、晴耕雨読の生活をした。
途中に車を置いて、歩いた。 トトロだ出て来そうな里山。 いい雰囲気。
お墓は、この奥に。
説明板があると思ったので来た。 墓だけ見るのは、つまらない。
この人が、どれだけの人なのかを、夕べは調べた。 時間がかかった。 ほんとうに武蔵に会ったのかも。
丸目家の墓が、いっぱいあった。 ※ 子孫は、この町に住んでいる。
これが、丸目蔵人佐の墓。 ※ 場所は、熊本県球磨郡錦町切原野堂山。 地図では、ここ。
丸目蔵人佐について。
【基本的なこと】(Wikipediaより)
○ 天文9年(1540年) - 寛永6年2月7日(1629年3月1日)
○ タイ捨流兵法の流祖。
○ 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で。
○ 肥後国(熊本県)南部の領主(後の人吉藩藩主)であった相良氏の家臣。
○ 名字は幼少時は山本、初陣の戦功により父と共に丸目(まるめ)を与えられる。
【錦町のHPでの紹介】(要点)
○ 丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)
○ タイ捨流創始・相良藩剣術指南役(1540~1629 )
○ 肥後八代郡人吉に生を受ける。
○ 幼い頃から剣の修行に励み、16歳の時、大畑合戦で初陣を飾る。
○ 翌年、天草の本渡城に身を寄せ、天草伊豆守から中条流を学んだ。
○ 19歳になると、当時最強と謳われた兵法者、上泉伊勢守に挑むために上京。
しかし、あえなく敗退しそのまま新陰流に入門した。
※ 上泉伊勢守・・・新陰流始祖:竹刀の原型を発明し、今日の剣道の基礎を築いたとされる。
○ その後、28歳で上泉から印可状を受け、3度目の上京の後、タイ捨流を興した。
「タイ」とは、大、太、体、待などの意味を持ち、これを捨てた「自在の構え」を旨とすると言われている。
【武蔵と接点があったかどうかについて】
これが、今日の中心ですね。
武蔵が、この町に来ている可能性があるようです。
ある小説の影響もあるが、この町の人は、来たことを誰もが信じています。
熊本県文化財保護指導委員の、渋谷敦という人が、以前、「タイシャ流と丸目蔵人佐」という演目で、講演をしていました。
その中に書かれていたものを、少しだけ紹介します。
※ 基本的には、小説の中身と思われる。
※ 武蔵は九州にもいた。
宮本武蔵は、巌流島の決闘で佐々木小次郎をやっつけた。
その二刀流の宮本武蔵が、錦町までやって来た。 丸目蔵人にお手合わせを願いたいと。
※小山勝清著『それからの武蔵』によると、その時、丸目蔵人 73歳、宮本武蔵29歳。
丸目蔵人はそれまで畑を耕していた。
そこに宮本武蔵が来てひとつお手合せをお願いしますと言う。
お粥でも食べないかと、家に誘う。
芋粥をお椀についで渡す。 武蔵は少しも油断せず芋粥を食う。
食ってしまうと、また畑に行くといって、鍬をかついで出て行く。
家と馬屋の狭い通路を丸目蔵人は鍬をかついでひょっこひょっこと行く。
73歳の老体が歩いていった。宮本武蔵もその後から油断なくついて行った。
中ほどまで行った時に、パーッと振り返った丸目蔵人。 肩の鍬を頭上に振り上げた。
武蔵は、左右がせまくて刀が抜けない。 後ずさって出口まで行って身構えた。
蔵人はその様子を見てニタッと笑って向こうに行ってしまった。
武蔵が後をついて行ったら、もう黙って畑を耕していた。
宮本武蔵はこう言った。
「無敵、遠く及ばず」「ご教示、心根に徹しましてござります」
そして、その場を去った。
これは、小説をもとにしているが、このように書いても不自然ではない程の力が、丸目蔵人佐にはあった。
※ この人は、薩摩の島津との戦い(大口の戦い)で大きな失敗をした。
丸目蔵人佐の作戦のまずさで、300人ほどの相良軍の家来を殺してしまう。
(敵にいくら囲まれても、自分は無傷だった)
ここの部分は、山本勘介とは違った。
剣の達人ではあったが、軍師としては知恵は、持ち合わせていなかった。人生は大きく狂った。
丸目蔵人については、とりあえず、ここまでにします。
近くに古い建物があるので、向かった。
梅の木が、薄く紅かった。
咲き始めていた。
梅は桜より早い。 濃い紅色だ。
この家。
桑原家住宅と言い、19世紀中頃のもの。 平屋の曲がり屋という、構造。
別の場所。 球磨川のほとり。
細い道の奥に、地蔵さんがあった。
この地方は、一向宗が禁止されていた。 隠れて念仏を唱えたそうだ。
横穴古墳を見に行った。
京ヶ峰横穴古墳群。 6世紀ころの物。
この穴の中に、人を葬った。
ここの特徴は、入り口とかに彫刻があることだそう。
中は広い。 何もない。
1辺が2.6㍍の正方形。 高さは、1.8㍍。 生活できる広さ。
入ってみた。 ※ ヒカリゴケはなかった。(調べたら、九州にはないそうだ。 本州の中部以北に)
別の小さな横穴。 ※ 骨を岩の穴に入れるのは、山寺にあった。
こんな鳥が。
小さい。 まるっこい。
せっかくこの町にいるので、観光情報誌にない所に行ってみました。
道の駅があるから、調べたり行くことができるが、道の駅がないと、大変だ。
少し寒いですが、歩くのがいいですね。
【道の駅】 錦 前日に同じです。
【今日の予定】 この町を出ます。 鍾乳洞に行くかも。
【ブログランキング】 5位です。
【拍手】
見た所は、4か所です。
どれも、錦町の観光ガイドMAPに載っていたものです。
錦町は、剣豪とフルーツの里だという。
剣豪は、丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)で、フルーツは、梨だった。
丸目という名前は、初めて聞いた。 この地方では、有名なようだ。
調べてみたら、剣の世界では、それなりの人だった。
「くらんどのすけ」は「くらんど」とも呼んでいた。
下の写真は、道の駅 錦。
右の建物はお店で、くらんど市。
後ろに公園があって、名前は、くらんど公園。

小さな町だが、剣道がさかん。

この人が、丸目蔵人佐。 タイ捨流(たいしゃりゅう)を生み出した。 構えが独特。


この人は、晩年、この地で、晴耕雨読の生活をした。

途中に車を置いて、歩いた。 トトロだ出て来そうな里山。 いい雰囲気。

お墓は、この奥に。

説明板があると思ったので来た。 墓だけ見るのは、つまらない。
この人が、どれだけの人なのかを、夕べは調べた。 時間がかかった。 ほんとうに武蔵に会ったのかも。

丸目家の墓が、いっぱいあった。 ※ 子孫は、この町に住んでいる。

これが、丸目蔵人佐の墓。 ※ 場所は、熊本県球磨郡錦町切原野堂山。 地図では、ここ。

丸目蔵人佐について。
【基本的なこと】(Wikipediaより)
○ 天文9年(1540年) - 寛永6年2月7日(1629年3月1日)
○ タイ捨流兵法の流祖。
○ 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で。
○ 肥後国(熊本県)南部の領主(後の人吉藩藩主)であった相良氏の家臣。
○ 名字は幼少時は山本、初陣の戦功により父と共に丸目(まるめ)を与えられる。
【錦町のHPでの紹介】(要点)
○ 丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)
○ タイ捨流創始・相良藩剣術指南役(1540~1629 )
○ 肥後八代郡人吉に生を受ける。
○ 幼い頃から剣の修行に励み、16歳の時、大畑合戦で初陣を飾る。
○ 翌年、天草の本渡城に身を寄せ、天草伊豆守から中条流を学んだ。
○ 19歳になると、当時最強と謳われた兵法者、上泉伊勢守に挑むために上京。
しかし、あえなく敗退しそのまま新陰流に入門した。
※ 上泉伊勢守・・・新陰流始祖:竹刀の原型を発明し、今日の剣道の基礎を築いたとされる。
○ その後、28歳で上泉から印可状を受け、3度目の上京の後、タイ捨流を興した。
「タイ」とは、大、太、体、待などの意味を持ち、これを捨てた「自在の構え」を旨とすると言われている。
【武蔵と接点があったかどうかについて】
これが、今日の中心ですね。
武蔵が、この町に来ている可能性があるようです。
ある小説の影響もあるが、この町の人は、来たことを誰もが信じています。
熊本県文化財保護指導委員の、渋谷敦という人が、以前、「タイシャ流と丸目蔵人佐」という演目で、講演をしていました。
その中に書かれていたものを、少しだけ紹介します。
※ 基本的には、小説の中身と思われる。
※ 武蔵は九州にもいた。
宮本武蔵は、巌流島の決闘で佐々木小次郎をやっつけた。
その二刀流の宮本武蔵が、錦町までやって来た。 丸目蔵人にお手合わせを願いたいと。
※小山勝清著『それからの武蔵』によると、その時、丸目蔵人 73歳、宮本武蔵29歳。
丸目蔵人はそれまで畑を耕していた。
そこに宮本武蔵が来てひとつお手合せをお願いしますと言う。
お粥でも食べないかと、家に誘う。
芋粥をお椀についで渡す。 武蔵は少しも油断せず芋粥を食う。
食ってしまうと、また畑に行くといって、鍬をかついで出て行く。
家と馬屋の狭い通路を丸目蔵人は鍬をかついでひょっこひょっこと行く。
73歳の老体が歩いていった。宮本武蔵もその後から油断なくついて行った。
中ほどまで行った時に、パーッと振り返った丸目蔵人。 肩の鍬を頭上に振り上げた。
武蔵は、左右がせまくて刀が抜けない。 後ずさって出口まで行って身構えた。
蔵人はその様子を見てニタッと笑って向こうに行ってしまった。
武蔵が後をついて行ったら、もう黙って畑を耕していた。
宮本武蔵はこう言った。
「無敵、遠く及ばず」「ご教示、心根に徹しましてござります」
そして、その場を去った。
これは、小説をもとにしているが、このように書いても不自然ではない程の力が、丸目蔵人佐にはあった。
※ この人は、薩摩の島津との戦い(大口の戦い)で大きな失敗をした。
丸目蔵人佐の作戦のまずさで、300人ほどの相良軍の家来を殺してしまう。
(敵にいくら囲まれても、自分は無傷だった)
ここの部分は、山本勘介とは違った。
剣の達人ではあったが、軍師としては知恵は、持ち合わせていなかった。人生は大きく狂った。
丸目蔵人については、とりあえず、ここまでにします。
近くに古い建物があるので、向かった。

梅の木が、薄く紅かった。

咲き始めていた。

梅は桜より早い。 濃い紅色だ。

この家。

桑原家住宅と言い、19世紀中頃のもの。 平屋の曲がり屋という、構造。

別の場所。 球磨川のほとり。

細い道の奥に、地蔵さんがあった。
この地方は、一向宗が禁止されていた。 隠れて念仏を唱えたそうだ。

横穴古墳を見に行った。


京ヶ峰横穴古墳群。 6世紀ころの物。

この穴の中に、人を葬った。

ここの特徴は、入り口とかに彫刻があることだそう。

中は広い。 何もない。

1辺が2.6㍍の正方形。 高さは、1.8㍍。 生活できる広さ。

入ってみた。 ※ ヒカリゴケはなかった。(調べたら、九州にはないそうだ。 本州の中部以北に)

別の小さな横穴。 ※ 骨を岩の穴に入れるのは、山寺にあった。

こんな鳥が。

小さい。 まるっこい。

せっかくこの町にいるので、観光情報誌にない所に行ってみました。
道の駅があるから、調べたり行くことができるが、道の駅がないと、大変だ。
少し寒いですが、歩くのがいいですね。
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道場もお墓も熊本県にありますが、本家は宮崎県にあります。