今いるところは、天草四郎の母の古里です。
四郎は、ここで生まれたかもしれない。 可能性はありますよ。
場所は、上天草市にある、維和島(いわじま)の蔵々(ぞうぞう)です。 港の駐車場にいます。 地図ではここ。
夕方、ポンカンの差し入れがありました。
昼間、子供をおぶっていたおばあちゃんからです。
朝、三角港を散歩していたら、釣りをしている船があった。
この船もそうだが、屋根のついてる船が多い。 のんびりしている感じだ。
オホーツクの船には、ない。 北に海の船は、波を蹴散らして、沖にまっしぐらだ。
天草最初の島、大矢野島に向かった。 天草四郎メモリアルホールがある。
天草五橋の最初の橋(1郷橋)、天門橋。 工事中だった。 隣は、昨年5月に撮影。 逆方向から。
大矢野島は、上天草市。 メモリアルホールに着いた。
天草四郎の像。 下の建物の、すぐそばに。
※ 原城の像の方が、いいですね。 それはここに。 明日を信じた人々の戦い「島原の乱」。
宗教色が、強いのかな。
天草四郎の墓。 何が入っているんだろう。 キリシタンの墓。
この辺り全体が、上天草市の中心街。 また、観光の中心。 海は、有明海。
満開の梅の花。
天草四郎メモリアルホール。 ※ 塗装工事中だった。 これは、入り口にあった写真。
中は、展示と映像ホール。 写真の撮影は出来なかった。
ここは、個人でなく、市の建物。
「自由と平等の戦い」と、島原の乱を、押さえていた。
こんな表現でも。
「日本で初めて、民衆が、自由と平等を求めて戦った」
戦いでは、「殉教の炎が燃え」、人々は、「天草・島原の誇りとなった」、とあった。
ここは、島原の乱を、宗教色の強い押さえ方をしていた。
※ 島原半島の原城では、圧政やキリシタンへの迫害に対しての、一揆という押さえ方。
天草は、小西行長の所領だった。
小西行長は、キリシタン大名だったが、関ヶ原では西軍に付いた。 負けて、首を切られた。
キリシタンに対する状況は一変し、江戸時代に入って、迫害は強まっていった。
反乱がおきるようになった。
年貢の取りすぎが原因だったが、領主は、反抗的なキリシタンの暴動と幕府に説明した。
つまり、キリシタンが、領主の失政の言い訳に利用された。
それから、小西行長や島原の有馬晴信の残党が、天草四郎を担ぎ出した。
島原の乱で戦った者たちは、すべて民衆ではなく、昔武士だったものもいた。
全員素人なら、戦いにならない。
※ メモリアルホールの考えをメモしてきたので、下に載せます。
(島原の乱を正確に押さえていないという、感じがするが)
《 自由と平等の戦い 》
青く澄み切った空があった。透き通った藍色の海があった。美しい自然があった。
しかし、人々の自由は奪われ、平等はなかった。
今から400年前、小さな島に、「自由・平等」の息吹が芽生えたことを知る人は少ない。
古い制度に、敢然と立ち向かう、勇気ある人々がいた。
苦難に耐え、不屈の闘志にあふれる人々がいた。
自由を求め、平等を叫び、壮絶な戦いに臨んだ37000の御霊は、今静かにパラゾイに眠る。 ※パラゾイ~楽園・天国
天草四郎はまさに、「自由・平等・博愛」の象徴だった。
以下、省略。
江戸時代は、すべてが圧政。
天草の人達も、周りと同じ程度の圧政や、また苦しみなら一揆は起こさなかった。
高い目標で戦ったのではなく、このままなら、死が待っていると思って、戦った。
そう思いますね。
キリシタン大名の、小西行長は、寺や神社は焼いた。
先日登った、釈迦院も、小西行長に焼かれていた。
今日、この後行く神社も、その時焼かれていた。
他を認めての自由平等には、なっていない面もある。むずかしい。
知らない島に向かった。 何があるかは分からない。
名前は、維和島。
反対側にある港に向かった。
蔵々(ぞうぞう)という地域。 そこの港。
上の写真の近くに、下のような標示が、数枚あった。 色んなことが分かった。
このような井戸が、そばの家の敷地内にある。
昔は、この島唯一の井戸。(写真は、説明にあったもの)
この井戸が掘られたのと、天草四郎が生まれたのは、同じ年。 1622年。
こんなことが分かった。
① 天草四郎は、大矢野町の出身。 (大矢野島)
② 四郎の母は、維和島の蔵々の人。 つまり、ここの人。
③ 母親は実家のあるここに戻って、四郎を生んだ可能性がある。(島の人達は、そう考えている)
④ 島原の乱の作戦を立てるなどの本拠地は、大矢野島の宮津にあった教会。 メモリアルホールのあった所が、宮津。
私は、たまたまここに来たが、天草四郎の母親、また四郎のゆかりの地だった。
蔵々を散歩した。
最初に書いたおばあちゃんも散歩していた。 3度会った。
車が通れない道も多い。
この地域の神社。 この神社も、焼かれていた。
ただの田舎道だが、面白い標示が。
こんなの。
港に戻って、気付いた。 今朝までいた、三角の港が見えた。 海のピラミッドも。
夕方、ポンカンが届いた。 川がむきやすく、食べやすい。 甘い。
偶然でしたが、いいところに来たと思った。
島原の乱については、複雑な面があるが、少し分かってきたように思うでしょうか。
【停泊場所】 蔵々の港。 地図は、上に。
【明日の予定】 天気がぱっとしない。 見晴らしのいいところに行きたい。
【今日の歌】 ハンガリー舞曲 第5番(YouTube) ギターです。
【ブログランキング】16位です。
【拍手】
四郎は、ここで生まれたかもしれない。 可能性はありますよ。
場所は、上天草市にある、維和島(いわじま)の蔵々(ぞうぞう)です。 港の駐車場にいます。 地図ではここ。
夕方、ポンカンの差し入れがありました。
昼間、子供をおぶっていたおばあちゃんからです。
朝、三角港を散歩していたら、釣りをしている船があった。
この船もそうだが、屋根のついてる船が多い。 のんびりしている感じだ。
オホーツクの船には、ない。 北に海の船は、波を蹴散らして、沖にまっしぐらだ。

天草最初の島、大矢野島に向かった。 天草四郎メモリアルホールがある。
天草五橋の最初の橋(1郷橋)、天門橋。 工事中だった。 隣は、昨年5月に撮影。 逆方向から。



大矢野島は、上天草市。 メモリアルホールに着いた。
天草四郎の像。 下の建物の、すぐそばに。
※ 原城の像の方が、いいですね。 それはここに。 明日を信じた人々の戦い「島原の乱」。

宗教色が、強いのかな。

天草四郎の墓。 何が入っているんだろう。 キリシタンの墓。


この辺り全体が、上天草市の中心街。 また、観光の中心。 海は、有明海。



満開の梅の花。

天草四郎メモリアルホール。 ※ 塗装工事中だった。 これは、入り口にあった写真。

中は、展示と映像ホール。 写真の撮影は出来なかった。


ここは、個人でなく、市の建物。
「自由と平等の戦い」と、島原の乱を、押さえていた。
こんな表現でも。
「日本で初めて、民衆が、自由と平等を求めて戦った」
戦いでは、「殉教の炎が燃え」、人々は、「天草・島原の誇りとなった」、とあった。
ここは、島原の乱を、宗教色の強い押さえ方をしていた。
※ 島原半島の原城では、圧政やキリシタンへの迫害に対しての、一揆という押さえ方。

天草は、小西行長の所領だった。
小西行長は、キリシタン大名だったが、関ヶ原では西軍に付いた。 負けて、首を切られた。
キリシタンに対する状況は一変し、江戸時代に入って、迫害は強まっていった。
反乱がおきるようになった。
年貢の取りすぎが原因だったが、領主は、反抗的なキリシタンの暴動と幕府に説明した。
つまり、キリシタンが、領主の失政の言い訳に利用された。
それから、小西行長や島原の有馬晴信の残党が、天草四郎を担ぎ出した。
島原の乱で戦った者たちは、すべて民衆ではなく、昔武士だったものもいた。
全員素人なら、戦いにならない。
※ メモリアルホールの考えをメモしてきたので、下に載せます。
(島原の乱を正確に押さえていないという、感じがするが)
《 自由と平等の戦い 》
青く澄み切った空があった。透き通った藍色の海があった。美しい自然があった。
しかし、人々の自由は奪われ、平等はなかった。
今から400年前、小さな島に、「自由・平等」の息吹が芽生えたことを知る人は少ない。
古い制度に、敢然と立ち向かう、勇気ある人々がいた。
苦難に耐え、不屈の闘志にあふれる人々がいた。
自由を求め、平等を叫び、壮絶な戦いに臨んだ37000の御霊は、今静かにパラゾイに眠る。 ※パラゾイ~楽園・天国
天草四郎はまさに、「自由・平等・博愛」の象徴だった。
以下、省略。
江戸時代は、すべてが圧政。
天草の人達も、周りと同じ程度の圧政や、また苦しみなら一揆は起こさなかった。
高い目標で戦ったのではなく、このままなら、死が待っていると思って、戦った。
そう思いますね。
キリシタン大名の、小西行長は、寺や神社は焼いた。
先日登った、釈迦院も、小西行長に焼かれていた。
今日、この後行く神社も、その時焼かれていた。
他を認めての自由平等には、なっていない面もある。むずかしい。
知らない島に向かった。 何があるかは分からない。

名前は、維和島。

反対側にある港に向かった。

蔵々(ぞうぞう)という地域。 そこの港。

上の写真の近くに、下のような標示が、数枚あった。 色んなことが分かった。

このような井戸が、そばの家の敷地内にある。
昔は、この島唯一の井戸。(写真は、説明にあったもの)
この井戸が掘られたのと、天草四郎が生まれたのは、同じ年。 1622年。

こんなことが分かった。
① 天草四郎は、大矢野町の出身。 (大矢野島)
② 四郎の母は、維和島の蔵々の人。 つまり、ここの人。
③ 母親は実家のあるここに戻って、四郎を生んだ可能性がある。(島の人達は、そう考えている)
④ 島原の乱の作戦を立てるなどの本拠地は、大矢野島の宮津にあった教会。 メモリアルホールのあった所が、宮津。
私は、たまたまここに来たが、天草四郎の母親、また四郎のゆかりの地だった。
蔵々を散歩した。

最初に書いたおばあちゃんも散歩していた。 3度会った。



車が通れない道も多い。


この地域の神社。 この神社も、焼かれていた。

ただの田舎道だが、面白い標示が。

こんなの。

港に戻って、気付いた。 今朝までいた、三角の港が見えた。 海のピラミッドも。

夕方、ポンカンが届いた。 川がむきやすく、食べやすい。 甘い。

偶然でしたが、いいところに来たと思った。
島原の乱については、複雑な面があるが、少し分かってきたように思うでしょうか。
【停泊場所】 蔵々の港。 地図は、上に。
【明日の予定】 天気がぱっとしない。 見晴らしのいいところに行きたい。
【今日の歌】 ハンガリー舞曲 第5番(YouTube) ギターです。
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