1180年、頼朝は伊豆の近くの石橋山の戦いで負けた。
逃げる時、まとまっていたら見つかりやすいので、小さなグループに分かれて逃げた。
伊豆から、安房の地に渡った。
そして、一晩、身を隠した場所が、仁右衛門島の洞窟と言われている。
(信ぴょう性は、どのくらいあるのか、確認が必要ですね)
海岸沿いの道は、房総フラワーラインとなっている。 その道を北上。
花は、どこにもない。
ここは、道の駅ちくら・潮風王国。 隣が花畑なので、寄った。
花は見つからない。 こんな、岩場の海岸が多い。
道の駅で、魚が売っていた。
干したのを7枚くらい買った。 アジとサンマともう一つ。 少し傷があったので、まとめて、350円。
※ 晩に、フライパンで焼いて、酢醤油に浸けて食べた。 サンマは骨も食べられた。
※ 車の中で火を使う時は、エンジンをかけて、エアコンを使わないと、暑い。
ローズマリー公園。 花があったのは、ここだけ。 ヨーロッパ風の庭園だった。
道の駅、鴨川オーシャンパーク。 変わった建物。 今は、ここの駐車場に。
仁右衛門島に向かって歩いている。
車は、この後行く、太海(ふとみ)フラワーセンターに。
※ 両方見ても、値段がたいして変わらないので、両方にした。
鰹節に見えた。 干している。 ネコやカラスに食べられないのか。
仁右衛門島には、この船で渡る。 二人で漕ぐ。 島と言っても、目の前だった。 小さい。
源頼朝が、戦いに負けてこの地に逃げてきた。 この地でも襲われた。
島の住人 平野仁右衛門は、頼朝を島に案内した。 頼朝は洞窟に一晩身を隠した。 助かった。
こんな話があったので、この島に来た。
この話について調べてみたら、信ぴょう性が高いことが分かったので、簡単に書いていきますね。
1180年、頼朝は伊豆の近くの石橋山で、平氏方と戦った。 負けて逃げることになる。
兵がまとまっていると目立つので、小さなグループに分かれて逃げる。
頼朝は、熱海の少し北の真鶴崎から海を渡って、房総半島の鋸南町竜島に上陸する。 (今の住所で) ※ 上陸地点はここ。
※ 地図の左の方に、真鶴が見える。
5分ほどで、着く。
頼朝は伊豆で逃げてる時、こんなことがあった。
平家方に、梶原景時という武士がいた。 この人は、頼朝の居場所を知っていた。
でも、これを隠し、向こうの山が怪しいと、味方の軍を頼朝から遠ざけた。
※ 義経も、敵から情けをもらったことがある。 似ている。 人間的な魅力があったのか。
※ 梶原景時は、義経のことを悪く頼朝に伝えた人間だ。 思い出した。 それがなかったら、義経は死ななかった。
島の周囲は、4㎞。 昔から、平野家しか住んでいない。
島の上の方に道はあった。 花は植えたもの。(調べて分かった)
芭蕉の句碑があった。 「海暮て 鴨の声 ほの可尓 白し」 ※ ほの可尓~ほのかに
この句は、1684年の12月に、名古屋の熱田で作られたものだった。
野ざらし紀行にある。 どうしてここにあるかは、?
芭蕉でなく、者世越(はせを)とあった。 芭蕉のことだそう。
真っ直ぐ行ったら、海に出そう。
小さな神社があった。 島に1軒しか家はないのに。
蓬(よもぎ)島弁財天とあった。 昔、この島は蓬島と呼ばれていた。
この港を、右の方から渡ってきた。
※ 平野家の子どもたちは、海が荒れたら、学校は休み。 皆勤賞はもらえなかったそう。
岩が亀に見えたので、パンフレットを見た。 そうしたら、亀岩となっていた。
山の頂上に、平野仁右衛門さんの家はあった。 風が強いから、このように。
家は、1704年に建てなおした。 その前は、山の下にあったが、津波で流された。
奥の庭。 推定樹齢600年だという、蘇鉄の木があった。
池に水があった。 山の上なのに水はどうして? 聞けばよかった。
正面に戻って、中はこう。 今も、住んでいる。
津波で壊れた家の材料も使った。 それで、こんな継足しが。
説明してくれたのは、この方。 平野家の奥様。
何でも知っていた。 聡明な方だった。
お礼を言って、別の門から出る時、北海道から来たんですよと、最後に言った。
そうしたら、「紋別郡は知らないだろうか」と言った。
そこは、私の守備範囲だ。
奥様のお姉さまの旦那さんが、鴻之舞(こうのまい) 金山で働いていたという。 ※ 金山は、1973年に閉山。
私がいた上渚滑から、車で30分かからない。
また戻って、しばらく話した。
※「銀色の道」という懐かしい歌があるが、この歌の舞台は、鴻之舞。
銀色の道(YouTube) 関連ブログ 銀色の道 初期の頃のブログは、こんなの。
山を下りた。
この先の所で、日蓮が旭を拝したとあった。 ※ 旭は、朝日というより太陽のことか。
そこからの風景。
下の右の方に、頼朝が隠れた洞窟がある。
頼朝は、房総半島に上陸して、この島の近くにやってきた。
それは、鴨川近くの貝渚(かいすか)という所。 ここです。 下に島が見える。
そこに、止宿しているところを、長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)の兵が、夜襲をかけてきた。
その時、平野仁右衛門が頼朝を、この島にかくまった。
こんな内容。 その後頼朝は、再起し鎌倉へ進軍し、12年後鎌倉幕府を開く。
奥の赤い扉の向こうに、穴がある。 そこに身を潜めた。
馬蹄石。 馬の蹄の跡が残っているという。 こんなのは色んな土地にあって、もちろん伝説。 石は硬すぎる。
船を漕(こ)ぐ人と話した。
いい仕事だねと言ったら、大変なんだよ、と言った。
ちょっと漕いだら、向こうに着くでしょ、と言った。
知らない人は、これだもな、って顔をして、手を見せてくれた。
失礼なことを言った。 手は、豆だらけだった。
カメラを向けたから、この顔ではない。 元々。 いい顔だ。 この道40年だったかな。
この道を戻った。 これが、こっちの港の雰囲気。
中央の人に話しかけた。 とうさん、何を見てるの、って。
霧が濃いんだよね、って言った。 梅雨に入って、毎日これだ。
太海(ふとみ)フラワー磯釣りセンター。
こんな感じと、温室が。
バラが咲いていた。 ここは、花を育てて売っている。
カーネーションの赤は、独特。 いい。
ハイビスカスもあった。
いいですね。
サボテンも。
何とも言えない色。
細いサボテン。
ここで魚を釣って遊んだ。 釣ったら放す。 ※ 持ち帰ることも出来る。
ウマヅラハギかな。 「イテテテテ!」って、顔をした。
ここを通って戻った。
この島の、頼朝に関わることは、いろんな資料に出てきた。 ※ この島で作った資料以外で。
頼朝がこの島で助けられた可能性は、十分にありますね。
こんな話が残っている。 平野仁右衛門氏の文より。 少し出来過ぎと、本人も。
頼朝は、助けてもらったお礼を考えた。
褒美は「安房一国」でどうか、と頼朝は言った。
だが、仁右衛門は、「粟一石」と勘違いし、それよりも漁業権が欲しい、と言った。
結果、漁業権が与えられた。
頼朝にとっては、人生最大のピンチの一つ、だったのでしょうね。
※ 関連ブログ 家康の危機一髪
【道の駅】 鴨川オーシャンパーク
【明日の予定】 「月の沙漠」の舞台になった地がある。 そこを見て、内陸に入るか。
【今日の歌】 J(YouTube) 韓国で俳優が亡くなりましたね。 二人の歌手が歌っている。 どっちもいい。
この曲は平成15年のもの。 上手に歌う人に出会ったことがある。 忘れられない。
【ブログランキング】 国内旅行2位、旅行全体で4位です。
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逃げる時、まとまっていたら見つかりやすいので、小さなグループに分かれて逃げた。
伊豆から、安房の地に渡った。
そして、一晩、身を隠した場所が、仁右衛門島の洞窟と言われている。
(信ぴょう性は、どのくらいあるのか、確認が必要ですね)
海岸沿いの道は、房総フラワーラインとなっている。 その道を北上。
花は、どこにもない。
ここは、道の駅ちくら・潮風王国。 隣が花畑なので、寄った。

花は見つからない。 こんな、岩場の海岸が多い。
道の駅で、魚が売っていた。
干したのを7枚くらい買った。 アジとサンマともう一つ。 少し傷があったので、まとめて、350円。
※ 晩に、フライパンで焼いて、酢醤油に浸けて食べた。 サンマは骨も食べられた。
※ 車の中で火を使う時は、エンジンをかけて、エアコンを使わないと、暑い。

ローズマリー公園。 花があったのは、ここだけ。 ヨーロッパ風の庭園だった。

道の駅、鴨川オーシャンパーク。 変わった建物。 今は、ここの駐車場に。

仁右衛門島に向かって歩いている。
車は、この後行く、太海(ふとみ)フラワーセンターに。
※ 両方見ても、値段がたいして変わらないので、両方にした。

鰹節に見えた。 干している。 ネコやカラスに食べられないのか。


仁右衛門島には、この船で渡る。 二人で漕ぐ。 島と言っても、目の前だった。 小さい。

源頼朝が、戦いに負けてこの地に逃げてきた。 この地でも襲われた。
島の住人 平野仁右衛門は、頼朝を島に案内した。 頼朝は洞窟に一晩身を隠した。 助かった。
こんな話があったので、この島に来た。

この話について調べてみたら、信ぴょう性が高いことが分かったので、簡単に書いていきますね。
1180年、頼朝は伊豆の近くの石橋山で、平氏方と戦った。 負けて逃げることになる。
兵がまとまっていると目立つので、小さなグループに分かれて逃げる。
頼朝は、熱海の少し北の真鶴崎から海を渡って、房総半島の鋸南町竜島に上陸する。 (今の住所で) ※ 上陸地点はここ。
※ 地図の左の方に、真鶴が見える。
5分ほどで、着く。

頼朝は伊豆で逃げてる時、こんなことがあった。
平家方に、梶原景時という武士がいた。 この人は、頼朝の居場所を知っていた。
でも、これを隠し、向こうの山が怪しいと、味方の軍を頼朝から遠ざけた。
※ 義経も、敵から情けをもらったことがある。 似ている。 人間的な魅力があったのか。
※ 梶原景時は、義経のことを悪く頼朝に伝えた人間だ。 思い出した。 それがなかったら、義経は死ななかった。
島の周囲は、4㎞。 昔から、平野家しか住んでいない。


島の上の方に道はあった。 花は植えたもの。(調べて分かった)

芭蕉の句碑があった。 「海暮て 鴨の声 ほの可尓 白し」 ※ ほの可尓~ほのかに
この句は、1684年の12月に、名古屋の熱田で作られたものだった。
野ざらし紀行にある。 どうしてここにあるかは、?
芭蕉でなく、者世越(はせを)とあった。 芭蕉のことだそう。

真っ直ぐ行ったら、海に出そう。

小さな神社があった。 島に1軒しか家はないのに。
蓬(よもぎ)島弁財天とあった。 昔、この島は蓬島と呼ばれていた。

この港を、右の方から渡ってきた。
※ 平野家の子どもたちは、海が荒れたら、学校は休み。 皆勤賞はもらえなかったそう。

岩が亀に見えたので、パンフレットを見た。 そうしたら、亀岩となっていた。

山の頂上に、平野仁右衛門さんの家はあった。 風が強いから、このように。

家は、1704年に建てなおした。 その前は、山の下にあったが、津波で流された。

奥の庭。 推定樹齢600年だという、蘇鉄の木があった。
池に水があった。 山の上なのに水はどうして? 聞けばよかった。

正面に戻って、中はこう。 今も、住んでいる。

津波で壊れた家の材料も使った。 それで、こんな継足しが。

説明してくれたのは、この方。 平野家の奥様。
何でも知っていた。 聡明な方だった。

お礼を言って、別の門から出る時、北海道から来たんですよと、最後に言った。
そうしたら、「紋別郡は知らないだろうか」と言った。
そこは、私の守備範囲だ。
奥様のお姉さまの旦那さんが、鴻之舞(こうのまい) 金山で働いていたという。 ※ 金山は、1973年に閉山。
私がいた上渚滑から、車で30分かからない。
また戻って、しばらく話した。
※「銀色の道」という懐かしい歌があるが、この歌の舞台は、鴻之舞。
銀色の道(YouTube) 関連ブログ 銀色の道 初期の頃のブログは、こんなの。
山を下りた。

この先の所で、日蓮が旭を拝したとあった。 ※ 旭は、朝日というより太陽のことか。

そこからの風景。

下の右の方に、頼朝が隠れた洞窟がある。

頼朝は、房総半島に上陸して、この島の近くにやってきた。
それは、鴨川近くの貝渚(かいすか)という所。 ここです。 下に島が見える。
そこに、止宿しているところを、長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)の兵が、夜襲をかけてきた。
その時、平野仁右衛門が頼朝を、この島にかくまった。
こんな内容。 その後頼朝は、再起し鎌倉へ進軍し、12年後鎌倉幕府を開く。

奥の赤い扉の向こうに、穴がある。 そこに身を潜めた。

馬蹄石。 馬の蹄の跡が残っているという。 こんなのは色んな土地にあって、もちろん伝説。 石は硬すぎる。


船を漕(こ)ぐ人と話した。
いい仕事だねと言ったら、大変なんだよ、と言った。
ちょっと漕いだら、向こうに着くでしょ、と言った。
知らない人は、これだもな、って顔をして、手を見せてくれた。
失礼なことを言った。 手は、豆だらけだった。

カメラを向けたから、この顔ではない。 元々。 いい顔だ。 この道40年だったかな。

この道を戻った。 これが、こっちの港の雰囲気。
中央の人に話しかけた。 とうさん、何を見てるの、って。
霧が濃いんだよね、って言った。 梅雨に入って、毎日これだ。

太海(ふとみ)フラワー磯釣りセンター。

こんな感じと、温室が。

バラが咲いていた。 ここは、花を育てて売っている。


カーネーションの赤は、独特。 いい。

ハイビスカスもあった。


いいですね。

サボテンも。

何とも言えない色。

細いサボテン。

ここで魚を釣って遊んだ。 釣ったら放す。 ※ 持ち帰ることも出来る。


ウマヅラハギかな。 「イテテテテ!」って、顔をした。

ここを通って戻った。

この島の、頼朝に関わることは、いろんな資料に出てきた。 ※ この島で作った資料以外で。
頼朝がこの島で助けられた可能性は、十分にありますね。
こんな話が残っている。 平野仁右衛門氏の文より。 少し出来過ぎと、本人も。
頼朝は、助けてもらったお礼を考えた。
褒美は「安房一国」でどうか、と頼朝は言った。
だが、仁右衛門は、「粟一石」と勘違いし、それよりも漁業権が欲しい、と言った。
結果、漁業権が与えられた。
頼朝にとっては、人生最大のピンチの一つ、だったのでしょうね。
※ 関連ブログ 家康の危機一髪
【道の駅】 鴨川オーシャンパーク
【明日の予定】 「月の沙漠」の舞台になった地がある。 そこを見て、内陸に入るか。
【今日の歌】 J(YouTube) 韓国で俳優が亡くなりましたね。 二人の歌手が歌っている。 どっちもいい。
この曲は平成15年のもの。 上手に歌う人に出会ったことがある。 忘れられない。
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コメント
頼朝伝説
Re: 頼朝伝説
月の沙漠の舞台は御宿で、まあ、いいのかなと思います。
こういうのは、先に名乗りを上げて、本人の了解をもらえば、決まりですね。
この人の砂浜と月のイメージは、いろんな砂浜のイメージが合わさったように思います。
ただ、その中心は、御宿かもしれない。
若い時にここに来て、どのくらいの期間か、毎日眺めていたから。
資料館がありました。
証拠固めの資料館。 そんな感じもしました。
観光に活かしたいという、願いがあるからですね。 仕方ない。
観光というのは、本人の願いとは少しズレがあるようです。
ネットで色んなものを読んだ中に、書いてありました。
一般的には、御宿で認められる状況です。
九州は、狙い撃ちのように、雨が降りましたね。
こっちは大したことありません。
こういうのは、先に名乗りを上げて、本人の了解をもらえば、決まりですね。
この人の砂浜と月のイメージは、いろんな砂浜のイメージが合わさったように思います。
ただ、その中心は、御宿かもしれない。
若い時にここに来て、どのくらいの期間か、毎日眺めていたから。
資料館がありました。
証拠固めの資料館。 そんな感じもしました。
観光に活かしたいという、願いがあるからですね。 仕方ない。
観光というのは、本人の願いとは少しズレがあるようです。
ネットで色んなものを読んだ中に、書いてありました。
一般的には、御宿で認められる状況です。
九州は、狙い撃ちのように、雨が降りましたね。
こっちは大したことありません。
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頼朝伝説はいい話ですね。人生の危機を、ここで一時回避したのですね。平野家には、頼朝の寄贈品はなかったのでしょうか。
「月の砂漠」の舞台が次の訪問先ですか。楽しみです。これは童謡では横綱級の歌ですね。私も好きで、三木露風の「赤とんぼ」と「月の砂漠」は名曲中の名曲と思っています。「月の砂漠」の砂漠の作者は、加藤まさを。挿絵画家でした。昔の画家は文才もありますね。蕗谷虹児、竹下夢二など、彼らもすてきな童謡をもっています。加藤まさをの絵も好きです。千葉の御宿海岸に、「月の砂漠」の碑があります。資料館はどうだったかな?蕗谷虹児の資料館は新潟にあります。